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変化にまつわる「不安の正体」

「アルケミスト」という冒険の物語が大好きで、この小さな本を読み返すたび、その時々で惹かれる言葉の違いから、自分の状態を知ります。

夢の実現を不可能にするものが、たった一つだけある。それは失敗するのではないかという恐れだ。

「挑戦」が喜びの要素でありながら、不安の要素でもあることの複雑さに向き合っている今の私に、この一文がぐっときました。

私自身も、起業を含めたいくつかの挑戦を通じて、この「見えないけれど確かに存在する不安」と付き合ってきました(私の物語は「Key Page」等で記事になっています)。

港屋の活動の根底に流れるテーマは、一人ひとりの「挑戦のストーリー」を支える環境をつくることです。これまでも、さまざまな条件下にある個々の「変わりたい」「変わらなければ」に寄り添う仕事をしてきました。

その過程で得た気づきのひとつは、「変われよ」の外的圧力や「変わりたい」の情熱、衝動があっても、「人はそれだけでは変われないことがある」ということでした。正確にいえば「変われないと思ってしまうことがある」。

来る日も来る日も、挑戦したいと思いながらも湧いてきてしまう「不安にふるえる声」を聞いてきました。

「教科書のない未知の世界にいきなり飛び出すのは不安だ」
「できるかどうかわからなくて怖い」
「私たちには『まだ』準備ができていない」

「不安や恐れを感じる」ということにおいては、組織形態も役職も年齢も、関係ありません。

挑戦したい。やってみたい。変わりたい。

それでも出てくる「不安や恐れの正体」ってなんだろう?
私たちが変化や挑戦を前にするとき、気づけば支配されているその感情は、どこからやってくるのだろう?

変化するために必要な知性の発達

私も口にしたことがある過去を白状しますが、「とりあえずやってみよう」「気合いだ、根性だ!」という精神論が不安解消に機能しないのは、不安が情緒的なだけでなく本能的なものだからです。

本能であるということは、「危険を察知する機能として備わっている」ということであり、絶対悪ではありません。自分を守る、あるいは自分が大切にするなにかを守るために必要だということです。
しかしそれが、行動のブレーキにもなりうる。発達心理学のロバート・キーガンはこれを「変化をはばむ免疫機能」と呼んでいます。

この感情から学びを試みるなら、願望に対して出てくる不安や恐れによって、私たちは「願望(変わりたい)に反してでも守ろうとしているなにか」と、「発生した自己矛盾」を知ることができます。

そして自分が防衛しているものを客観視できると、別の解釈が生まれます。固定観念を手放す判断をしたり、自分の価値基準を知ったり、代替できるものを発見したり。不安を乗り越えようとするなら、感情面の力学から覆し、「主体で見ているものを客体に変化させる知性」が求められるということです。

変化に踏み出す前に、明らかにした方がいいこと

リーダーシップ論のロナルド・ハイフェッツによれば、人が直面するのは「技術的な課題」と「適応を要する課題」のどちらかだけです。
私たちがつい感じる「不安の正体」は、変化そのものではなく、「変化に対して無防備であること」。

克服の方法論を模索する前に、まずは不安を解消するために必要なものが「技術面」なのか「適応面」なのかを知る必要があります。それを明らかにして初めて、対策が始まります。

インターネットの恩恵によるさまざまなサービスの手にとりやすさや、専門家にアクセスしやすくなったことなどから、技術面のサポートはとても受けやすくなっています。適応面についても、「個人でコーチをつける」という選択肢が、以前よりも一般化してきています。

何がわからないかがわかり、何ができるようになれば良いかがわかる。
次に起こりうる状況が想定でき、その対処方法がわかる。

技術と適応の両面が整うことで、抽象的だった不安が具体的な課題解決に変わっていきます。

あなたが感じている不安や恐れは、「技術」と「適応」のどちらに属するものでしょうか?そこでは、どんな技術や適応が求められているでしょうか?

「不安」を超えて、あなたはどこへ行きたいのか

不安や恐れは「自分が本能的に守ってしまうもの」を教えてくれますが、それと向き合うだけでは、「乗り越える自信」まで与えてくれません。

運良く手に入れたもので「対処」できても、それは本物の自信にはならず、また別の場所で不安や恐れを抱きます。感情を捉え直す知性や、乗り越えた実感が伴わないからです。知性の発達には三段階あるので(環境適応→自己主導→自己変容)、今いる段階からステップアップしない限り、同じレベルの中で似たような不安を感じ続けることになります。

自信の有無によらず、自分をストーリーの主役たらしめるものは「選択」です。不安や恐れの「克服を試みるかどうか」を自分で選ぶ。「技術や適応」の支援や訓練を取り入れるかどうかを自分で選ぶ。そうして、自分の心と体を通して得た実感が自信になります。

合格印も論理的必然性もなくて、そこにはただ「自分だけが持つ希望」がある。自信につながるのは、そうなれるかどうかという「可能性」や「お墨付き」ではなく、自分の「意志の力」です。選択や意志には、思わぬ結果も引き受ける「覚悟」が伴うからです。そしてそれは、挑戦の連鎖を生み出します。

あなたが「それでも選びたいもの」は、何でしょうか?

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