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【短編小説】猫のクッション

電話を切ると、私はその場に座り込んだ。
フローリングの床がひんやりと冷たい。
ソファの上から彼とお揃いで買った、2つの猫のクッションが虚な目でこちらを見ている。

「他に好きな人ができた」
5年間交際してきた彼が電話越しに伝えてきた言葉。
私の脳が処理することを拒んで、しばらく理解することが出来なかった言葉。

週末にドライブデートを控えた金曜の夜。
きっと私は悪い夢を見ている。

少し開いたクローゼットの隙間から見えるチェック柄の紙袋。
来たるクリスマスに向けて、彼のために買ったグレーのマフラーが入っていた。
私はぼんやりとそれを眺めた。

スマートフォンのバイブ音。
彼からのメッセージだった。
「荷物は後日取りに行く。合鍵はその時ポストに入れておく」
悪夢だと思っていた、ぼんやりとした音声に唐突に輪郭がついた。

29歳、仕事に忙殺されてきた生活にも少し余裕が出てきて、そろそろ結婚をと考えていた矢先の出来事だった。

頭の中で音を立てて崩れていく未来。
私の目の前は真っ暗になった。

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目を覚ますと全身に走る激痛に思わず身体が強張った。
小さな動きで、そろりと周囲を見回すとどうやら病院のようだった。

ピンク色の服を着た40歳前後と見える女性が入ってくる。
「まあ、気が付きましたか?大丈夫ですか?」
女性はよく響く大きな声で話しかけてきた。
ちょっと待ってね、先生呼んでくるからと言いながら、女性は足早に部屋を出た。

数分後、白衣姿の白髪の男性を伴って、先ほどの女性が戻ってきた。
男性は細い金色のフレームの眼鏡を人差し指で押し上げながら尋ねた。
「はじめまして、担当医の三木です。体調はいかがですか?」
「全身、物凄く痛いです」
「そうでしょうね、無理せず横になっていてください」
私は枕から少しだけ上げた頭を、再び力無く枕に横たえた。
「お身体辛いところ、恐縮なんですがお名前なんとおっしゃいますか?」
「名前?」
三木と名乗った男に尋ねられ、私は沈黙した。
全く思い出せなかったのだ。
私の名前、何も難しいことを聞かれているわけではないのに、答えられない。
「あの、…わかりません」
私は正直に答えた。
「そうですか、事故に遭われて少し混乱しているのかもしれませんね。何か思い出せることはありませんか?ご家族のことやお仕事のこととか?」
思い出そうと試みたが、頭に靄がかかったように何も思い出すことが出来なかった。

三木は小さな唸り声を上げて、胸の前で腕を組んだ。
「先生、記憶が?」
隣の看護師だと思われる女性が尋ねる。
「そうかもしれないね。事故の混乱もあるのかもしれない。少し様子を見よう。脳波は改めて測らないといけないね」
「わかりました」
2人でひとしきり話すと、三木は再び私に向かって言った。
「まずはゆっくり休んでください。もし何か思い出したことがあったらすぐに教えてください」
「はい」
私はただ返事をすることしか出来なかった。
窓の外で鮮やかな黄色に染まった銀杏の葉を見て、自分の名前は思い出せないのに銀杏は分かるのかと不思議に思った。

看護師の話によると、私は数日前に轢き逃げにあったらしい。
深夜だったため、目撃者も無く、また犯人が全て持ち去ったのか身分を示すものもなかったという。

上手く眠れず、ベッドに横たわったまま私は悶々と考えた。
いくら考えても家族のことも仕事のことも思い出すことは出来なかった。

明日には心療内科の先生が往診に来てくれるらしい。何か記憶の回復に繋がるものが見つかるかもしれない。
淡い期待を胸に私は考えることをやめて目を閉じた。

「病院の食事って思ってたより美味しいですね」
私は思ったままを口にして、しまったと思った。
「あなたは病気で入院してるわけではないですからね。沢山食べてちょうだい」
そう言って看護師はふふっと笑った。

午前中は脳波の検査だなんだと、諸々移動させられて疲れたが、身体の痛みが昨日より和らいでいることに気付いたことは収穫だった。

コンコン。病室のドアがノックされた。
「どうぞ」
私は寝たまま、顔だけドアの方へ向けて言った。

ドアが開くと小綺麗な女医が入ってきた。
「失礼します」
女医は丁寧な所作で引き戸を閉めるとこちらを振り返った。

(あれ?)
女医と目が合った時、私は急な眩暈に襲われた。
視界が暗くなり、上手く意識を保てない。
「大丈夫ですか?」
女医が私の方へ駆け寄ってきて、顔を覗き込む。
(おいおい、こんな時にニヤけた顔するなよ不謹慎な)
薄れゆく意識の中で、私には女医が微笑をたたえているように見えた。

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バタン。
彼が車のドアを閉めた。
「さすがに冷えるな」
助手席に座った彼は手を擦りながら言った。
首元には私がプレゼントしたグレーのマフラーが巻かれている。
「でもイルミネーションすごく綺麗だったね」
車のエンジンをかけながら私は答えた。
「そうだな。こうやって自分の足でイルミネーションを見てるなんて信じられないよ」
「ほんの2ヶ月前まで、ベッドに寝たきりの記憶喪失ですもんね」
「本当だよ。記憶はいまだに戻らないけどさ」
そう言って彼は笑った。
いまだ記憶は戻らないものの、彼は明るかった。

さすがに事件から2週間ほど経った頃、身元、職場は判明した。
しかし、彼に身内はおらず、付き合いのある親族もいなかったそうだ。
職場の人たちとの交友関係もそこまで深いものではなく、プライベートまで親交のある人物はほとんどいなかった。
むしろ、事件前より明るくなったと言う人もいるんだと彼は教えてくれた。

他愛ない会話を30分ほど続けているうち、私の家に着いた。
「しかし、ピカピカの外車。羨ましいよな〜さすが女医さんだよ」
車を降りると、ボンネットに触りながら彼が言った。
「ピカピカなのは新車だからよ、まだ納車から2ヶ月も経ってないもの」
ふーん、とつまらなそうに言う彼を、私は部屋へ向かって誘導した。

「どうぞ」
「おじゃまします」
私は先にあがってリビングの明かりを付けた。
「私、食事作るから適当に寛いでて」
私がカウンターキッチンに立って促すと、彼はリビングの中央に歩いていった。

彼は興味深げに部屋を見回すとソファの上のクッションに目を留める。
「お、猫のクッション、かわいいな」
「そうでしょうね、買った時もそう言ってたもの」
「え、何て言った?水道の音で聞こえなかった」
「ううん、なんでもないの。独り言」
「そっか」
彼はソファに座るとポンポンと猫のクッションを撫でた。
やっぱり虚な目が私を見ていた。

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