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鈴の音

山歩きが趣味になってもう何年たつだろうか。

若い頃はなにが楽しくて何もない山にわざわざ登るのか、気が知れないなどと思っていたものだったが、意外や意外、たまたま昔からの友人に誘われたことがきっかけで、40も過ぎてからすっかり山にハマってしまった。
昔は何もないと思っていた山だったが、登山道の脇の小さな花や虫の音、谷間を吹き抜ける風の感触など都会にいては味わうことのできない山の魅力にすっかり取りつかれてしまい、休日のたびに山登りを楽しむようになった。

最近では若者の間でも登山が人気なのか、山道でも若いカップルや女性のグループもよく見かけるようになった。
山で若い人見かけると、どうにも昔の自分が思い出されて気恥しく、有名な山ではなくて小さな里山ばかり向かうようになってしまった。
里山巡りの楽しみは登山だけではなくて、山菜や茸など、そこでしか味わえない山の幸が味わえることだ。家に持って帰ってもなかなか調理も難しくて、意を決して里山近くの蕎麦屋に持ち込んだところ、これがまた絶品の天ぷら蕎麦に仕立ててくれたため、以降は蕎麦屋の近くの里山が定番の山となってしまった。

何度も通ううちに蕎麦屋の主人とも懇意になり、彼も山登りが趣味で、脱サラして蕎麦屋を始めたというところから気が合い、いつの間にか友人とも言える関係になっていた。

竹田さん、というその5歳年上の人生の先輩から、こっそり打ち明けられたのは通い始めてしばらく経ったころだった。

「樋口さん、ここだけの話だけどね、いい茸が採れる山があるんだよ」

お客は自分以外誰もいないのに、口元に手をあててひそひそ声でそう言ってくる。

「竹田さん、僕以外お客もいないんだから、そんな内緒話をするみたいに言わなくてもいいじゃないですか」
「いやあすまんすまん、この話を人にするのは初めてなもんでね。ついついやってしまったよ」

竹田さんは苦笑いしながらごま塩頭を撫でつける。
いかにも蕎麦屋の店主らしいその風貌は、しかしかつては大企業の部長職だったというから人は見た目では分からないものだ。

「しかしそんな場所があるんですか。このあたりの里山でも十分いい茸が採れますけどね。最初に竹田さんに作ってもらったあの天ぷら蕎麦は本当に絶品でしたから」
「そう言ってくれると嬉しいね。しかしちょっとその山はね、あまり地元の人でも入らないらしくて、人に知れるといい顔をされないんだよ」
「おや、どうしてですか」
「なんでも山の一部が神社の敷地になっているらしくて、禁足地みたいな扱いらしいんだ。いや、もちろんそこには入らないよ。でもあまりそこの周囲をうろうろしていて見られると面倒なんでね。人気の少ない夕方くらいに行くことが多いんだよ」

自分もこのあたりの里山をしょっちゅう訪れている手前、あまり地元の人に嫌われるのもよろしくないとも思ったが、茸の話に興味をいたく引かれていたのは正直なところだった。
よそから来たとは言えこのあたりに住んでいる竹田さんは何度も訪れているようだし、一緒ならそこまで面倒なことにもならないだろう。
そう考えて次の連休にご一緒しましょう、ということになった。


近くの温泉旅館に宿をとり、せっかくなのだが夕飯は断って、15時過ぎに竹田さんの店で合流した。もちろん夕食はその日の戦果で作る天ぷら蕎麦というわけだ。

店からは竹田さん所有の軽トラックで目的地まで向かう。
道中、竹田さんからは熊に気をつけるようにと念を押された。

「分かっているとは思うけど、里山でも熊が出ることはあるからね、特に茸狩りなんてしていると気がつけば夢中になってしまうから、お互いに気をつけていこう」
「ええ、分かっていますよ。そのためにクマよけ鈴をつけているんですし、お互いの鈴の音が聞こえる範囲で動けば安心ですね」

目的の山は店からはそこまで離れてはいなかった。
竹田さんは軽トラを山にちょっと入った先の藪の近くに停車させる。

「まあ、気持ちの問題だけどあんまり見られていいもんでもないからね」

言いながら車を降りると、藪をかき分けて山に踏み入っていった。
自分も見失ってはかなわないと、後に続いていき、がさがさと灌木の隙間を縫うように道なき道を登っていく。

「この山の反対側が神社になっていてね。そちらはもっと開けているんだけど、そのあたりが禁足地になっているようなんだ」

気を抜くとすぐに竹田さんを見失いそうになるため、あまり話は耳に入ってきていなかった。
しばらくは無言での登りが続く。汗がじんわりと滲んできたころに、いきなり開けた場所に辿り着いた。

「このあたりがそうだよ」

確かに言われて地面を見回してみると、木の根元のそこかしこに立派な茸が顔を出している。普段訪れている里山と比べてみても、まるで様子が違っていた。

「これは凄いですね」

思わず口にする。どれを選んでも美味い天ぷら蕎麦にありつけることは確実だった。これだけより取り見取りだと、せっかくならば、出来の良いものをと欲が出て来る。

「ちょっとあたりを見てきてもいいですか」
「構わないけど、はぐれないようにね」
「ええ、もちろんですよ」

そうは言ったものの、ここまで凄いと夢中になってしまう自分を抑えることの方が難しく、いつの間にか竹田さんの鈴の音も僅かに聞こえるくらいの距離まで離れてしまっている。

だが小さいとはいえ鈴の音が聞こえていることの安心感から、戻ることもせずに地面を夢中で這いまわってしまっていた。


夢中になるうちにあたりが暗くなってくる。さすがに暗くなってから戻るのは危険だと思い、鈴の音を頼りに竹田さんと合流しようと音のなる方へと向かった。

しかし、どれだけ近づこうとしてもなぜか音が大きくなってこない。

だんだんと焦ってきて、大声で「竹田さん!」と呼びかけても返事が返ってくることはなく、さすがにおかしいと思い始めた。
どう考えても鈴の音よりも大声を出しているのだ。聞こえていないわけがない。

鈴の音はどんどんと上の方、つまり山の奥の方へと向かっていく。

暗さが増すにつれて風が強くなりはじめ、藪がざわざわと揺れる。その音に鈴の音もかき消されそうになる。
藪に引っかかってしまった茸の籠もその場で放り投げ、鋭利な草の葉で細かい傷ができるもの構わずに必死になって音を追いかける。

目の前の藪の向こうから鈴の音が聞こえてくる。
それをかき分け目にしたものは、小さな鈴を口に咥えて悠然と山中を歩む、巨大な黒い生き物だった。
その目はあたりを包み始めた夜の闇の中で爛々と青白く光り、こちらを見据えてくる。

それを見た瞬間、恐怖で固まりかけた手足を必死に叩き、元来た方向へ転げ落ちるように駆け下っていた。
もつれそうになる足を必死で動かし、一秒たりとも止まらないようにと全神経を集中させてひたすら下っていく。

途中、樹の間に張ってある縄に足を取られて大きく転げてしまった。
右腕を木の根に強く打ち付けてしまい、痛みで悶絶しそうになりながらも歯を食いしばって起き上がる。

足を引っかけてしまった縄には紙垂が結わえ付けられていた。

いつの間にか禁足地に入ってしまっていたのか。

振り向くと闇の向こうから恐ろしい気配が伝わってくる。全身の毛が逆立つのが分かる。
二度と振り向くまいと決心し、再び山を転げるように降りていく。

軽トラックが止めてある元の場所にたどり着いた時には剥き出しの部分は切り傷や擦り傷から血が滲み、ぶつけた右腕はまともに上がらず、全身汗と泥にまみれてぼろぼろの状態だった。

軽トラックの運転席には何事もなかったかのように竹田さんが座っていて、こちらを見て慌てて車から降りて駆け寄ってくる。

「樋口さん!姿がいつの間にか見えなくなっていたからどうしたものかと思っていたよ、大丈夫かい!」

それに詳しく答える気力はほとんど残っておらず、ただ、「帰りましょう、ここにはもう来ない方がいいです」と言うのが精一杯だった。

以来、竹田さんの蕎麦屋を再び訪れる気が起きず、山からも足が遠のいてしまっていたが、たまたま見た夜のニュースで竹田さんが熊に襲われ死亡した、というのを知った。


その山が、二人で訪れたあの里山だったのかどうかは結局分からずじまいであり、それを確かめる気力はもはやすっかり失っていた。


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