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【ショートショート】記憶冷凍

記憶を冷凍できる技術が発明されて久しい。簡単なヘッドセットをかぶるだけで自分の記憶を取り出しておくことのできる手軽さからこの技術は急速に広まっていった。
普及の初期段階では都合の悪い不正の記憶を冷凍して隠しておき、「記憶にございません」などとのたまった政治家が逮捕される、などの珍事もあるにはあったが、過去に何度もあった革新的な技術と同様に世間はこの新しい技術に次第に適応していった。
冷凍されるのは概ね嫌な記憶や都合の悪い記憶で、それを脳内から取り出すことで嫌なことを忘れて快適に生きるというのが主流の使い方だったが、中には楽しかったり幸せだった記憶をあえて冷凍する人たちもいた。冷凍できるということは解凍もできるということであり、自分の幸せな記憶を愛する人のために遺しておきたいと願う人もいたのである。
僕の妻はおそらく後者の人だった。彼女が遺してくれたのは僕と過ごした甘い時間だった。僕は彼女が遺してくれた記憶を長い時間をかけて惜しみながらゆっくりと溶かしていった。彼女の記憶もすっかり溶かしきったと思っていたある日、たまたま物入れの奥からころりと一つの記憶が転がり落ちてきた。奇妙に鮮やかな赤色をしたその記憶を僕は長いこと置きっぱなしにしてきたのだが、齢を重ねいよいよ人生の終幕に差し掛かったところで僕はついにその記憶に手を付けた。

戸惑いが僕を襲う。

血塗れでナイフを握り笑っている、この記憶はいったい何なんだ?


……僕はその記憶ごと冷凍することにした。
これがきっと、一番正しい使い方なんだ。



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