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So many Sweet home


あれ、今日はどこのホテルだったっけ?
終業時刻間近になったので、スマホを取り出して予約したホテルを確認する。表示を見てやっと思い出した。今日は人形町のホテルだった。
予約メールに記載されているリンクをたどって駅からホテルまでのルートを軽く確認しておく。そのあともバタバタと山積みの業務をこなしているうちに、気が付けばオフィスの人影はまばらになっていた。
慌ててデスクの下に押し込んであったキャリーケースを掴み、「お先に失礼します~」と言いながら退勤する。

東京メトロの人形町駅に着くころには夜の10時を回っていた。
ガラガラとキャリーケースを引きずりながらコンコースを抜けていく。
外に出る階段を登り切ったところで、きょろきょろとあたりを見回し、自分の現在地と向きを確認する。

「ええと、あのビルがこっちに見えるんだから…ホテルはあっちか」

地下鉄の駅を出ると決まって方角が分からなくなる。こればっかりは慣れない限りもうどうしようもない。
歩きながらスマホの地図アプリを開いて、途中のコンビニを探す。
場合によるとホテルを通り越した先にしかなかったりするけど、今日は運よく途中に一軒あった。

夕飯の弁当と、ペットボトルのお茶、それに晩酌用の缶ビールを一缶買ってから再びホテルを目指す。
無事に到着し、ロビーの自動ドアを開けると、カウンターから「お帰りなさいませ」と声がかかる。

「ええと、予約していた坂本ですけど」
「坂本様ですね。少々お待ちください。…本日より連泊のご予定ですね」
「はい。シーツの交換は2日に1回でいいです。掃除は毎日お願いします」

予約が確認できたら、言われる前にホテルの専用アプリを差し出してチェックインの手続きを済ませる。

「お部屋は3階の302号室になります」
「分かりました」

部屋に入ったらキャリーケースを壁際に寄せ、スーツを脱いでハンガーにかけ、備え付けのバスローブに着替えてからテレビをつけて、ごそごそと弁当を取り出し夕飯を食べ始める。

これがいつものパターンだ。この半年くらい、ずっとこんなリズムの生活を続けている。
長期出張で都内のオフィスに通うことになり、週末は自宅のある福岡に帰るとはいえ、平日のホテル暮らしも随分と長くなった。
都内のホテル事情も昨今は予約が厳しく、常に同じホテルがとれるとは限らないのだけど、なんとなく近場の駅にある同一チェーンの複数のホテルをぐるぐると彷徨いながら生活している。
だいたい部屋の間取りや設備が同じなので一度慣れてしまえば楽なのだ。

ただ、これにもちょっとだけ問題があって、朝になって目が覚めた時に、
いったい自分がどの駅のホテルに泊まっているのかが咄嗟に分からなくなる。何しろ起きた時に見える部屋の風景はどこも同じなのだ。
朝食を食べにロビーに降りたところで、ああ、そういえば人形町のホテルだったっけと確認する感じになっている。

とはいえ慣れてしまえばホテル暮らしも悪くはない。
洗濯は一階に設置されているランドリーで済ませられるし、ベッドメイクも部屋の清掃もやってくれる。
一人暮らしの自宅より考えようによっては快適なのだ。

なによりホテルに着いた時の「お帰りなさいませ」の一言が案外嬉しかったりする。

いくつかのホテルをぐるぐる回っているとはいえ、これだけ連泊していると
受付のスタッフもこちらの顔を覚えてくれるので、「お帰りなさいませ」がいつのまにか「坂本様、おかえりなさい」になっていたりする。
こちらも必然的にスタッフの顔が分かってくるので、なんだか本当に家に帰ってきたような安らぎを覚えてくるのだ。
だからまあ、週末の東京-福岡間の往復がしんどいけど、ホテル暮らしも悪くはないのだ。


しかし、そんな生活も伝染病のせいで唐突に終わりを告げられた。


出張は全面的に禁止になり、今は自宅からリモートワークの毎日。
一人暮らしだから子どものいる家庭よりは楽だと思うけど、家に籠る毎日だとやはり多少気が滅入ってくる。

それに加えて気にかかるのはホテルのスタッフさん達だ。
それぞれのホテルで何人かのスタッフさんの名前を覚えるくらいはホテル生活をしていたので、いまどうしているだろうかと気になっている。
いつもコンビニ弁当なのを心配して、遅くまでやっている近くの店を紹介してくれたり、一日だけ部屋が空いてなくて別のホテルに泊まる間、大変そうですからとキャリーケースを預かってくれたり、うっかり寝坊してしまった時にちょっとだけチェックアウトの時間を融通してくれたり、色んなスタッフの人たちが親切にしてくれたのを思いだす。

まだしばらくは出張でホテルに泊まることは難しいと思うけど、長距離移動ができるようになったらプライベートででも常連となった各ホテルにまた泊まりに行こうと思っている。

そう、なにしろ僕には愛しのわが家がいくつもあるのだから。

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