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三十五年目のラブレター 第17話

「済まないね。年寄りのジジイが使っているようなベッドしかなくて」
「とんでもありません、私、ほんとに畳でもフローリングでも寝られるんですから。桐谷さんこそ、私の我儘でこんなことになっちゃってすみません」
 本当にどう考えてもこの場合は川畑が迷惑な女だろう。桐谷が「解放するから帰っていい」と言っているのに、話がしたいから帰らないと言って譲らず、桐谷と一緒に夕食を取り(それも買って来させて、だ!)、この家に泊まると言い出したのである。
 桐谷はベッドのシーツやら布団カバーやらを全部洗濯したものに取り換えて川畑に譲り、自分は寝袋を出してきて畳の上に広げているのである。
 川畑も内心「こんな人質いないわよね」と思いつつも、桐谷が我儘を聞いてくれるのをいいことに、お嬢様はきっと世間離れした常識を持ち合わせているに違いないと自分を無理やり納得させていた。
 運良く桐谷が未だに山歩きを趣味としていたお陰で、たまたまこの家にいつでも使えるようによく干された寝袋があり、綺麗好きの桐谷が替えの布団カバー類を一通り持っていたことから、川畑は綺麗にメイクされたベッドで眠ることができることになったわけだ。こんな好待遇な人質など前代未聞だろう。
 しかも、夏で本当に助かった。これが冬なら寝袋という選択肢は消えていたかもしれない。
 なんだか申し訳なくなって「明日は私がご飯作りますから」と言う川畑に、桐谷は「それじゃあ買い物に行って来ないといけないね」と笑った。
「そろそろ灯りを消そうか」
「はい」
「真っ暗だと怖いかな。小さいのを一つだけ点けておこうか」
 こんな細かい心配りのできる人なのに、何故誘拐なんかしなければならなかったのか。彼の一生背負っていく罪とはなんなのだろうか。
 薄暗くなった部屋で、川畑は桐谷よりも一段高いところで寝ているのが申し訳なく感じる。
「桐谷さん、絵はお好きですか?」
 何故かそんな言葉が川畑の口を突いて出た。何故そんなことを口走ってしまったのか自分でもわからない。
「ああ、好きだよ。さすが中橋君のお嬢さんとあって、シオリさんもそっちに興味があるのかな」
「私、あんまり絵ってよく分からないんです。その良し悪しとか。好き嫌いでなら語れるんですけど」
 ベッドの下から桐谷がクスッと笑うのが聞こえて来た。
「絵なんてそんなものさ。芸術は究極の自己満足じゃないのかな」
「そうですよね。それなのに、人は芸術に憧れ、芸術に魅入られる、不思議です」
「自己満足だからこそ、だよ」
 窓の外で虫が鳴いている。ここは都内かその近郊だろうと踏んでいたが、都内で虫の声が聞こえるようなところなどあっただろうか。八王子やあきる野の辺りか。海老名や厚木方面か。いっそ取手や安孫子の方だろうか。
 こんな時、島崎がいれば「どこそこじゃねえか」とあっさり答えを出してくれそうな気もする。
「そういえば中橋君はアールヌーヴォーが好きだったな」
「その頃からなんですか。今でもクリムトが大好きなんですよ」
「昔はミュシャが好きだったよ。よく話を聞かされた」
「ええ、今でもミュシャ大好きみたいです。桐谷さんもアールヌーヴォーがお好きなんですか?」
 ベッドの下からプッと噴き出す声が聞こえた。
「それがね……僕はアールヌーヴォーには全く興味がないんだ」
「ええっ?」
「中橋君は面白くてね、僕がアールヌーヴォーになんかまったく興味を持っていないということに全然気づかないんだ。普通は態度で気づくものなんだけれど。彼はとても純粋だったからね」
「桐谷さんは誰の絵がお好きだったんですか?」
「モネ」
 即答か。なるほど、印象派ならアールヌーヴォーとはかなり方向性が違う。
「睡蓮とか?」
「いや、『かささぎ』だ」
 かささぎ? そんな絵は聞いたことが無い。画廊の娘が知らないと恥ずかしいレベルの作品だろうか。雰囲気でそれを察したのか、桐谷が言葉を継いだ。
「モネの初期の作品でね。画面全体が雪景色なんだ。真ん中に画面を上下で分断する垣根がある。何かの木でできた生け垣だな、そこにも雪が積もっている。地面も雪、近景も遠景も雪。そこにちょこんとカササギが一羽とまってる。真っ白い世界に黒いカササギがよく映えてね、画面を引き締めてる」
 なるほど、確かに引き締まる。絵画はそういうふうに見るものなのか。
「モネの凄いところは、その雪の描写なんだ。生け垣の影になっているところと陽の当たっているところ、もう温度が違う。影は寒色を基調としたストロークの長い筆遣いなのに対して、陽の当たるところは暖色を用いて細かい筆遣いをしている。雪の融け具合が一目でわかるんだ。雪景色なのになぜか暖かく感じる、不思議な絵だよ」
 桐谷がこんなにも絵画に造詣が深いとは思いもよらなかった。これは言葉を選ばないと大変な事になる。川畑はそれだけで生きた心地がしない。自分の素人程度の知識では、画廊経営者の身内だというのが嘘だとバレてしまうかもしれないのだ。徹底して「美術にはほとんど興味がない」というのを印象付けなければならないだろう。
「『睡蓮』や『ジヴェルニーの庭の小道』のような華やかなものが話題に上りやすいけれどね、僕は『かささぎ』や『ヴァランジュヴィルの税官吏小屋』のような温度を感じるものが好きなんだ。あれも藁の少しくすんだ黄色と、ぼんやりとした淡い色の海が印象的だ。画面の中に描かれていない太陽の暖かみが伝わって来るんだ」
 この人から滲み出る暖かみに近いものを感じる。その絵はどちらも見たことが無いが、彼の語るモネは、どれも温もりを持っている。
「父とはそういう話はしなかったんですか? いつもアールヌーヴォーの話を聞かされていただけ?」
 桐谷は当時を思い出したようにくすくすと笑いだした。
「そうだね。中橋君とは絵の事では会話が成り立たなかった。彼はもう本当にアールヌーヴォーに夢中で。僕が聞いていようといまいと勝手に語っていたからね。それにひきかえ、僕は『なんとなく好き』という程度だったから、さほど語れることは無くて。専ら聞き役だったよ」
「とってもよくご存知ですよ。恥ずかしながら、私どちらも知らなくて」
「親と子が同じ趣味を持っている必要はないさ。君はシオリさんであって、中橋君では無いのだから」
 桐谷の話を聞きながら、不謹慎と思いつつも「この人が新興宗教の教祖様や詐欺師になったら、大変な事になっていただろうな」と考える。この能力を教師という職業で開花させてくれて本当に良かった。恐ろしいほどに心を掴まれる。
「済まないね。またつまらない話を聞かせてしまった」
「面白かったです。桐谷さんの言葉で語られる絵画は幸せですよ。かささぎ、見たくなりましたもん。明日も色々お話してください」
 川畑は眠るのを惜しく感じた。こんな形ではなく、生徒として会っていたらどれだけ幸せだっただろうか。いずれこの人を誘拐犯として逮捕しなければならないのかと思うと、なんとも気が滅入った。

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