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ONE 第四十二話 誤算

 ルシファーはカツミを力任せにベッドに押し倒した。しかしカツミはされるがまま。何の反応もしない。どんなに熱い愛撫にも、全く感情を見せなかった。

 抵抗しないことで拒絶を示してるのかよ?
 ルシファーはムキになった。それとともに焦りだす。
 廊下で垣間見た、カツミの縋るような顔。あれは、見間違いだったのかとすら思う。それとともに、自分のやっていることの意味が分からなくなってきた。

 来客を知らせるブザーが鳴った。びくりと動きを止めてルシファーがドアを見ると、カツミもまた同じ方向を見ている。もう一度ブザーが鳴った。しかし、カツミは身動きひとつしない。

「こないだの軍医ですね。なぜ逃げないんですか」
 ルシファーには外の様子が分かる。シドが不審に思いながら立ち去って行くのも脳裏に浮かぶのだ。
「行ってしまいましたよ。明日のことで話があったみたいだ。行くんでしょう? 恋人に会いに」
 ルシファーは、どうしてもカツミの本音を引き出したかった。廊下で見せた表情こそがカツミの本音だと思っていた。
 淡々と仕事をこなしているけど、本当はギリギリの精神状態のはずだ。見間違いなんかじゃない。意地を張っていなきゃ立っていられないくらい、追い詰められてるんだ。

「痕つけましょうか? 明日までに消えないような」
 ルシファーが脅しをかける。本音を引き出すには悪手だなと思いながら。しかしその言葉で、カツミが怯えた表情に変わった。ようやく見ることの出来た感情に、ルシファーは安堵する。

「嘘ですよ。俺はそこまで馬鹿じゃないですから」
 そう返しながら、ルシファーは思った。
 いや、馬鹿は自分のほうだ。攻撃して来る者に本音なんて言えるわけがないだろ! なにをやってんだ、俺は! 本当に言いたいことはこんなことじゃない。本音を知りたいなら、真っ直ぐに訊かないとだめじゃないか! 俺が本当に言いたいことは? 本当に訊きたいことは? ルシファーは、カツミにきちんと対峙しなければとみずからを戒めた。

「貴方は強くなんかないです。一人でなんて生きていけないでしょう?」
 真っ直ぐな言葉に、カツミが意外な返事をした。
「誰も一人でなんて生きていけないよ」
「そうやって唯一の思い出を抱いて生きるんですか?」
 ジェイの思い出と共に……。それだけを胸に。
 カツミの言葉は、あまりに寂しいとルシファーは感じた。思い出だけを拠り所に生きるなんてと。しかし次にカツミが紡いだ言葉は、過去ではなく未来を見据えた言葉だった。

「思い出じゃない。一緒に生きていくんだ。これからもずっと必要な人なんだよ」
 静かに語られた言葉の中に、カツミの決意があった。
「……一緒に?」
「この目に映せなくても心に住んでるんだ。いつでも。今でも」
 きっぱりと告げる言葉とは裏腹に、カツミの瞳からは大粒の涙が流れ落ちる。ルシファーは思った。これが、カツミの葛藤の中身だと。言い聞かせていなければ崩れてしまう。思い込んでいなければ壊れてしまう。ジェイの望みは自分の望み。だから、強くあらねばならない。

 クリムゾンとトパーズの瞳が告げていた。生死は常に一対。そして、残される者は先に逝く者の想いを血肉にして生きて行く。そこに別れはない。もう会えなくても、決して別れはない。

 ルシファーの腕がふたたびカツミを抱き寄せる。確かにカツミは強い。でもその強さは、たくさんの虚勢をかき集めてようやく繕った強さじゃないか。カツミはまだ断崖に立っている。ほんの少し風が吹いただけで、あっという間に谷底に落ちるような断崖に。
 足場が崩れてガラガラと谷に落ちる。生は目の前にある。しかし死もすぐ後ろにあった。

 怖い。そうルシファーは思っていた。もう失いたくないのに。フィーアのような死は、もう見たくないのに。
 俺はカツミをフィーアと重ねているのだろうか?
 フィーアの代わりと思っている?

 みずからを嫌悪しながらも、ルシファーには回りだした歯車を止めることが出来なかった。
 カツミから引き出されるのは未知の感情ばかりなのだ。フィーアに対して感じていたような憧れではない。遠くから見ているだけで満足するような相手ではない。
 もっと切羽詰まった、生々しい感情。ずっと傍にいたいという独占欲。本音を知りたいという好奇心。カツミにとっての特別になりたいという欲。

 熱い愛撫が再開された。魅惑的な表情。繊細な身体。痛々しいほどに痩せていながらも、カツミの美しさは少しも損なわれていない。
 こんな美しい人が自分の腕のなかにいる。その事実が、ルシファーに陶酔を連れてくる。

 やがて熱は頂点に達した。溶かされ開く蕾を貫こうと、ルシファーが身体を浮かせる。だがその時、カツミの手がそっと彼の手に添えられた。
 我に返ったルシファーがカツミの瞳を見つめる。ここまでか……。拒まれるのかと思いながら。

「……嫌ですか?」
 仕方なく確認するとカツミが目を細めた。これまで見たこともないような蠱惑的な眼差しで。どきりとしたルシファーにカツミが甘く告げた。
「させてあげるから、上になってもいい?」
 色の違う瞳には挑むような光を湛えている。しかしカツミの声は、それとは対照的な甘露だった。

 返す言葉を失くしたルシファーに、今度はカツミがみずから唇を寄せた。
「遊びでも、自分が主導権持ってないと嫌なんだよ」
 カツミの言葉にルシファーはなぜか切なくなった。
 遊びかよ……。確かにそうだけど。間違ってないけど。落ちかけた気持ちをルシファーは皮肉に変える。

「分からない人ですね。たらしの素質十分ですよ」
「そうとも言うかもね」
 先ほどまでのカツミとはまるで別人だった。ルシファーを見つめたまま。不敵な笑みすら浮かべている。形の良いふっくらとした唇を舐めながら、挑発的にルシファーの出方を見ているのだ。

 ひとつ息をついたルシファーが、諦めて身体を横たえた。カツミの豹変に驚きながらも、興味をそそられたのだ。カツミは本当に分からない。ほんのさっきまで、ぼろぼろ泣いていたかと思えば、今度は誘惑してくる。
 どれが本当のカツミなんだ?

 部屋に静けさが落ちた。カツミはルシファーの胸に頬を乗せたまま、じっと動かない。柔らかな猫っ毛に手を伸ばしたルシファーに、カツミが囁く。
「安心するんだ。こうしてると。トクトクいってる」
「緊張してるんですよ」
 その言葉にカツミが小さく笑い、ますます頬をすり寄せる。
「ジェイの癖なんだ。そうやって髪を撫でるの。すぐに眠れる」
「眠られたら困りますよ」
 ルシファーの返事がよほど面白かったらしい。声をあげて笑ったカツミだったが、すぐに身体を下に引いた。

 激しい愛撫がいきなり始まる。柔らかな舌が熱い中心をもてあそぶ。待たされ焦らされたルシファーを、カツミはさらに焦らす。なかなか解放を許されない。
 目を細めたカツミが、ルシファーを茶化した。
「命乞いする?」
「誰がっ!」
「大丈夫。すぐに良くしてあげる」
 強気を崩さないルシファー。余裕の笑みのカツミ。

 カツミが快楽に導く。促すように反り返った背が律動に合わせる。上り詰めることの出来ない所まで、ルシファーは追い込まれていた。身体と、そして心すらも。
 その時になって、ルシファーはようやく自分の誤算に気づいたのだ。遊びだって? 冗談じゃない! 遊びでこんな気持ちになれるはずがない。
 嫉妬して、引き寄せられて、手に入れたくて、失くしたくない。一番近くにいたい。こんな気持ちが遊びなわけがない。

 限界まで手繰り寄せられた糸をプツリと切られた。
 すでに変化していたのだ。憎しみが興味に。興味が不安に。不安が欲望に。貶めようとしたのに、今では手に入れたくなっている。それをこんな時に気付くなんて。
 ──落ちていくのは、決して報われない手のなか。

 快楽の波が引き潮に連れ去られた。今さら言えない言葉は、もう飲み込むしかない。
「後悔するようなことはしないよ」
 色の違う双眸は、いまだ挑発的な光を宿している。
「俺は後悔しましたよ」
「自業自得ってね」
 カツミが再び茶化した。
 自業自得? ルシファーは深く息をつく。カツミは俺の真意を分かって言ってるのか? とてもそうは見えないけど。

 その時だった。けたたましいサイレンの音が、基地中に轟いたのは。

 ──緊急事態(EMG)コール!

 この場所が非日常の場所だと知らしめる警鐘。
 飛び起きた二人の上に、大音響のサイレンが容赦なく降り注ぐ。

 『全戦闘員、A級配置発令。全戦闘員、A級配置発令』

 機械的なアナウンスが響き渡る。
 特区にいる限り、EMG発令があれば所属部隊に駆け付ける。それがここの隊員の義務だ。

「前言撤回。俺いま、思いっきり後悔してる」
 シャツをはおったカツミが舌を出して言った言葉に、ルシファーが吹き出した。
「いまから乗れなんて言われたら死ぬぞ」
「それこそ、自業自得ってやつですね」

 『全戦闘員、A級配置発令。アラート待機、スクランブル。X─1部隊、X─2部隊、緊急発進に備えよ!』

 繰り返されるアナウンスに蹴とばされるようにして、二人は部屋を飛び出す。戦況はこの時、急展開を迎えていた。