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ONE 第三十七話 聞く者が聞けないもの

 20ミリアを過ぎて寮に戻った頃には、風の冷たさに芯が入り寒さは更に増していた。地下駐車場はがらりとしている。隊員たちは年明け前の長期休暇を交代に取っているので、寮内はいつもより静かなのだ。
 車を止めドアを開けようとしたユーリーを、カツミが黙したまま制止した。

「まさか、いるんじゃないだろうな?」
 食事中もルシファーの動機が話題だったこともあり、ユーリーの反応は速い。
 その彼に、有無を言わさぬ調子でカツミが告げた。
「俺はここに残ります。先に上がって下さい」
「ちょっと不満だな。A級の端くれとしては」
 ユーリーは口の端を曲げて不満を表したが、すぐにドアを開けると外に出た。
「心配いらないだろうけど、器物破損はしないように」
「はいはい」

 カツミが事も無げにあしらう。彼の言葉を信じるなら勝算があるのだろうとユーリーは思う。とはいえカツミの肝の据わった態度に驚きもしていた。カツミはその時々でまるで違う顔を見せるのだ。水面が空の色を映すように。この基地のトップの息子である。こういう面は親譲りなのかもとユーリーは思う。次の作戦──カツミにとっては初出兵だが、それも期待出来そうだとも。

 ユーリーがエレベーターの中に消えると、カツミは墓地への近道に向かった。それはカツミ流の挑発である。フィーアのいる場所で、自分の逃げ道を塞ぎたいとも思っていた。
 ルシファーがフィーアのことで敵意を向けるのなら、逃げるわけにはいかない。もうジェイに寄りかかって甘えていた過去は捨てなければ。そう決意し、カツミはぎゅっと唇を結ぶ。

 寮から墓地に続く道の脇には、小さな森がある。
 基地内はどこも照明が行き届いているが、さすがにこの場所には少ない。青い常夜灯が、ぽつりぽつりと雪道を照らすだけである。
 溶け残った雪が靴の下でぎしぎしと鳴り、街灯に伸びた影がゆらゆらと揺れる。今ここを歩いている者の気持ちを映したように。

 さきほど『見た』ルシファーのイメージは、まだカツミの心に刺さっていた。探ろうと思えばカツミは探れるのだ。ただ、したくない。それはそのまま、相手のなかにある闇を見ることだからだ。
 心にぽっかりと開いた穴。絶望。悲嘆。怒り。
 ──その頬に伝う一筋の涙。彼にとってのフィーアは、とても大切な人だったのだろう。

 そんな闇をどうして覗き見たいと思うだろう。そんな心を知ってしまった後に、どんな顔をして相手と対峙すればいいのか。覚えるのは罪悪感ばかりなのだ。
 しかしカツミは決めていた。もう自分の足で歩いていかなければと。ジェイは言ったのだ。自分が能力を受け入れていくことを望んでいると。

 墓地の門が見えたところで、カツミがさっと振り返る。一本道で隠れる所はなく、相手の姿をたやすく視界に捉えた。一瞬足を止めたルシファーだったが、手を伸ばせば届く距離まで歩み寄る。

「よく……分かりましたね」
「俺をどうするつもりなんだ?」
 聞きただしたカツミに、ルシファーが冷笑を向けた。
「別に。邪魔だから消そうと思っただけです」
 がさりと言い放ったルシファーに、カツミが鋭く切り返した。
「さっき、フィーアの墓にいただろ?」
 探りを入れられていたのは、ルシファーにとって意外だったらしい。強張った顔の前に白い息が膜を張る。

 ──頬を伝う一筋の。あのイメージ。
「フィーアの後輩だって?」
「後輩ね。そんな言葉で片付けられたくないですね。あの人を殺したあなたに」
 心のなかがざわりと棘で覆われた。ルシファーの言葉はカツミの予測を確信に変える。追い打ちをかけるように、ルシファーが黒い言葉で斬りつけた。カツミから返される刃に身構えながらも。しかし彼は、その事実を突きつけるためだけにカツミを追ってきたのだ。

「ほんとなら、一年前に、あんたはここからいなくなってたはずなんだ!」
「一年前って」
「俺があいつらをけしかけたんですよ! 金を掴ませて、脅しをかけてね!」

 つい最近、忘れると決めたことだった。一年前の初雪の日。先ほど通って来た針葉樹の森で──。
 あの場所に監視装置はない。大勢で連れ込まれてしまえば、どんなに声を上げても無駄なのだ。
 暴力に抗うことはできた。しかし能力が暴走してしまえば相手を殺しかねない。彼らを一瞬で葬り去ることなど、カツミには造作もないのだ。それが罪にならないというのなら。

 この一年の間、ずっと生々しく心を支配し、生への執着を脅かしてきた事実。あの日、カツミは無抵抗に命を投げ出していた。肉を削がれ骨が砕かれるような痛みに耐えながら、それを超えたものを欲していた。
 ──死のトパーズ。あの日のカツミは、早く殺してくれと願っていた。ジェイが彼を見つけるまでは。

「とんだガキだな」
「貴方ほどではないと思いますけどね」
 挑発的な言葉だがカツミの声は驚くほど静かである。感情を伴わない声色。それを耳にしたルシファーの顔が見る間に強張っていく。

「理由はまだあるだろ?」
「なんですか?」
 カツミが畳みかける。その相手の奥を『聞いている』ルシファーだけが、不可解な思いに支配されていく。
 分からないのだ。カツミの感情が。いつもなら必ず聞けるものが全く聞き取れない。ルシファーの目にカツミの存在は映っているが、その心が真空なのだ。ルシファーはそんな相手に出会ったことがなかった。

 ──この人は一体なにものだ。
 それは、全能力者であるルシファーだけに感じられる戸惑いだった。激しい怒りをぶつけられると身構えながら追ってきたのだ。なのに、カツミからは怒りどころか『なにひとつ』感情が拾い出せない。

「お前の姉さん。ジェイの婚約者だったんだろ?」
「それは関係ないです。姉は病気になったけど、ミューグレー少佐に責任はありませんから」
 会話をしながらも、ルシファーはカツミへの疑念でいっぱいとなっていた。
 仮にも事の張本人を前にして、どうしてこうも冷めた態度でいられるのか。他人事のような言い方ができるのか。困惑のなかで、彼は浮かんだ疑問を口に出した。

「一年前も今日も、貴方はまったく抵抗しませんでしたね。なぜですか?」
「クローンのことは聞いた? 下手に力なんか使うと、ああなるんだよ。正当防衛なんて認められない。一人や二人じゃなかった。みんな死んでたらどう思う?」

 ルシファーにはまだ、カツミの中身が探れない。空洞に向かって会話しているようなのだ。強いシールドなのか。あの磁場の正体がこれか。怒りを向けられて当然な事実を告げたのだ。こんなに淡々と話せるものではないのに。
 ──困惑と疑念。悔しさと、そして興味。抑えがたい興味。

「もうやめます。馬鹿みたいだ。すみませんでした」
 ルシファーは矛を収めた。臨戦態勢で来たというのに、ドアを開けたら誰もいなかったような感覚だった。
「いいよ。べつに」
「一年前のこと言ったとたんに、殺されると思ってました」

 その言葉を耳にしたカツミが瞬時に変化した。まるでパチリとスイッチを切り替えたように。
 ──変わった。いま変わった。
 瞬間、どっと流れ出たルシファーの知っている感情。カツミの安堵。緊張のほぐれたイメージ。馴染みのある人間らしいこころ。

 いったい、なにがあったのだろう。疑問を抱えたまま、ルシファーは寮に向かって踵を返した。同じ速度で横を歩く人物が、静かに問いを向けてくる。

「フィーアとどういう関係だったんだ?」
「なにも。ただのチームメイトですよ。憧れてたんです。自分の目標でした」
「のわりには、やることがキツイな」
「崇拝してたんです。あの人の進む先に誰かがいるなんて許せなかった。いつでも一番なのが彼だったんです」
「そっか」

 言葉が途切れ、二人は薄く雪の積もった道をただ歩いた。小さな針葉樹の森が青い街灯に照らされ、神秘的に光る。先ほど反対方向に歩いていた時のぴりぴりするような緊張とは、まるで対照的な空気が満ちていた。