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ONE 第四十一話 百年後の邂逅

「ジェイ、どうだった?」
 その夜。カツミの部屋を訪れたシドは、問いにうまく答えられなかった。言葉が見つからないのだ。沈黙の理由を察して、カツミが口をつぐむ。
「いいとは言えないよ。会えば分かると思う」
「うん」
 辛さを隠すしぐさがシドには痛い。ジェイも言葉少なだった。時計の針を逆回しには出来ないのだ。

「ゆうべね、ドクターが来てから眠っただろ?」
「ああ」
 カツミが突然話を変えた。戸惑いながらシドが頷くと、記憶をたどるようにしてカツミが視線を上げた。
「フィーアの夢を見たよ。優しい顔をして白い光の中にいたんだ。俺、もう大丈夫なんだなって思った。なぜだか分からないけど離れて行くんだなって」
「カツミ……」
「もうフィーアの夢は見ないんだなって思った。もう会えないって。どうしてかな」
 カツミはフィーアをジェイに重ねているのかもしれない。想いの深さに耐えかねたシドは、瞼を閉じるしかなかった。

 沈黙が支配する部屋で、シドは世界から遮断される。
 心の水面に浮かぶ小さな泡。それがプツプツと音をたて始める。微かな、ほとんど聞き取れないような微かな音を。その音に名づけるとしたら、人はなんと呼ぶのだろう。シドはもう知っていた。聞き慣れた言葉だ。そして、誰もがその音を聞くことに恐怖する。

 シドの視線の先で、唇を噛んだまま座り込んでいるカツミ。今までずっと、幼く脆く他人を振り回してばかりいると思っていた恋敵。
 しかし。カツミはもう庇護者の手を離れていく。まだ崖っぷちに立ってはいるが、後ろを振り返らない。ひたすら前を向いて進もうとしている。
 空しさは絶望に通じていた。立ち止まったまま動けない自分の弱さに、シドは打ちひしがれていた。

 ◇

 心の変化に翻弄されているのは、シドだけではなかった。前向きに歩き始めたカツミもまた、時間の流れに心が追いついていなかったのだ。追い立てられるように日々が過ぎ去り、息つく暇もない。

「カツミくん!」
 夕方。耳慣れた声にカツミが振り返ると、セアラがいきなり腕を絡めてきた。隣にいたルシファーが驚いて一歩引いたが、自走路を過ぎる隊員達は、またかといった表情で一瞥しただけである。

「だれ? この人」
「同じ部隊の新人だよ。ルシファー・セルディス少尉」
「ふーん。そう」
 セアラの視線は会釈をしたルシファーに向いていた。不満気な顔をしている。
「私はセアラ・ラディアンよ。ルシファーさん」
「はい?」
「私の目にかなった人じゃないと、カツミくんとは話させないわよ」
 手加減なしの先制攻撃を食らったルシファーが、困り顔になる。第二弾はカツミに着弾した。

「カツミくん。ほっぺた、どうしたの?」
「どうって。仕事で怪我しただけだよ」
「ほんとう?」
「なんだよ。うそ言っても仕方ないだろ?」
「ふーん。じゃあ、いいけどね」
 あっさり引いたセアラが、腕を離すなり反対側の自走路に飛び乗った。呆れている二人に手を振ると、ぽんと笑顔を押し付けてすぐに遠ざかって行く。

「恋人、ですか?」
「らしいね」
 どうにも答えにくいなと、カツミが誤魔化した。
「両刀使いだとは知りませんでした」
 ルシファーが、きっちり皮肉る。むっとしたカツミのきつい視線を、静かな嘲笑で押し返した。エレベーターで二人きりになると、空気はますます険悪になった。

「先輩も可哀そうに」
「なにが言いたいんだよ」
「いえ、別に」
 ルシファーが意味ありげに言葉を濁した。カツミは、それに苛立ちながらも反論の言葉を見つけられない。

「単なる思い出になんてさせない」
 ふいにルシファーが突き付けた棘に驚いて、カツミがさっと顔を上げた。
「貴方は俺の顔を見るたびにフィーア・ブルームのことを思い出す。俺にしたら最高の復讐ですよ」

 エレベーターが止まりフロアの廊下を進む間も、カツミは口を開かなかった。思い出になんかさせない。ルシファーの真意は分かっていた。自分が罪を背負って行くことを。もちろん忘れることなど出来ないことも。

 自室の前で足を止めたルシファーが、歩を緩めることなく立ち去るカツミを見送る。いつまで見つめていても、カツミは振り返らない。自分では彼の心を揺さぶれない。復讐するどころか、心の縁にすら触れられない。そう思いながらも、ずっと視線を外せなかった。

 立ち尽くしたままのルシファーに、カツミがちらりと振り返った。その顔を見たルシファーが息を飲む。
 どんな言葉も届かない。そう思っていたのに、カツミは今にも泣きそうな顔をしていた。すがりつくような視線を、無理やり笑みで誤魔化して。

 垣間見たカツミの本音を見て、ルシファーは自分のなかにある矛盾に気づいた。憎しみながらも惹かれていることに。セアラとの関係に苛立っていることに。自分の感情が嫉妬であることに。
 ない交ぜとなった不可解な思いは、これまで経験したことがなかった。すでに何かが変化していた。傷つけるどころか知りたくなっていくのだ。

 カツミが自室に飲み込まれた。それを認めてから、ルシファーは廊下の奥に歩を進めはじめた。

 ◇

「なにか、用?」
 訪室したルシファーに、ドアを開けたカツミがそっけなく訊いた。しかしルシファーは臆することなく部屋に踏み込み、カツミの逃げ道を塞ぐようにドアが閉まった。後ずさるカツミ。冷たい笑みを見せるルシファー。

「貴方をいじめる方法を思いついたんです」
 ルシファーは、そう言うが早いか、立ち尽くしていたカツミの肩を強く掴んだ。

 ──抗い難い引力。百年後の邂逅。
 その意味をルシファーはまだ知らない。二人の出会いが百年前から定められていたことを。

 ルシファーはカツミを激しく引き寄せると、無理やり唇を奪った。カツミの抵抗を無視した乱暴なキス。身体が離れた時には、二人は口の端から血を滲ませていた。

「俺にどうしろってんだよ! どうしたいんだよ!」
 吐き捨てるように叫んだカツミに、ルシファーが冷たく言い放つ。
「貴方が欲しいんです。奪って傷つくのを見ていたい。嫌なら、クローンのように殺せばいいでしょう?」
「そんなこと……」

 ルシファーにはカツミの本心が分かっていた。カツミは何かに縋っていたいんだ。表に出しているのは虚勢だ。特殊能力を使っても体力を保てないほど、ぎりぎりの状態なんだ。それを他人に見せないように、強がっているだけだ。

「貴方はなんで拒まないんですか」
「こばむ?」
「自分の状態は分かってるんでしょう? なんで、力で抵抗しないんですか」
「こんな能力……ない方が良かったよ」
 それはルシファーにとって信じられない言葉だった。

「俺は人殺しの道具だよ。そんな人間でも、必要だって言ってくれる人がいたから生きてこれたんだ」
「じゃあ」
 ルシファーの心を抑えきれない苛立ちが覆う。不安と背中合わせの苛立ちが。
「じゃあ、ミューグレー少佐が亡くなったらどうするんですか? 後追いでもする気ですか?」
 カツミの瞳にはもう涙が滲んでいた。
「死ねないよ。ジェイは俺に生きろと言った」
「そうすることですね。貴方自身のために」

 横を向き気丈に涙を拭うカツミを、ルシファーが再び抱き寄せる。カツミからの抵抗は、もうなかった。
 ルシファーは思う。非情なことを言いながら、何を求めてるんだ。これは復讐の続きか? フィーアの二の舞か? 抱けば何かが分かるとでも? そこまで思って、ルシファーはみずからを嘲った。ただの肉欲かもな。繊細で美しいガラスの箱。それを踏み潰して、犯したいだけなのかも……と。