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ふたつのうつわ 第2話 新入生

「あ、僕は長峰冬馬(ながみねとうま)といいます。本当は入学してすぐ来たかったけど、夏休みまでは部活禁止って言われて。やっと来れました」

 トーマと名乗った新入生は、尻もちでついた土埃を払うと、招かれるままに隣の部屋の大きなソファーに腰を下ろした。
 完成品がずらりと並べられた展示室。工房に並べると土埃ですぐに真っ白になってしまうので、別室なのだ。
 こちらには冬になると活躍する大きな暖炉がある。工房側は電気ストーブだけ。これもまた土が乾かないようにするためである。

 すかさず、トーマの膝に猫が座り込んだ。ゴロゴロと喉を鳴らし、鼻先をトーマの頬っぺたに擦り寄せてはザリザリと舐めるので、懐かれてしまった側は当然のように困惑顔である。

「この猫さん、猫ですか?」

 なんとも言えない質問だが、疑問に思うのも無理はない。しかし、ナツキの目には大型犬サイズだが、先生には普通に見えている。
 つまりは。

「俺、レイヤー持ちだけど、もしかして君も?」
「トーマって呼んで下さい。僕は病院に行ったこともないし、よく分からないです」

 確かに生まれた時から淡い色に慣れ親しんでいるので、何かの切っ掛けでもないと気づかないかもしれない。

「俺はナツキ。大きさの認識まで変化するのは、少数派って言われてるよ。ノーラは先生の目には普通の猫に見えるらしいし」
「ノーラ?」
「こいつの名前。元は野良猫だったから、ノーラ。俺にはちっとも懐かないけど」
「ナツキに懐かない猫なんだ」

 いまだにザリザリと頬を舐められながらトーマのこぼした言葉に、珈琲を淹れてきた先生がプッと吹き出した。

 ◇

「陶芸教室は夕食後から十時の門限前まで。来れる日に来ていいよ。休日もね。部活扱いだから月謝はいらないし、道具は工房のを好きに使っていい。ただ、ここにない土や釉薬が欲しくなったら自分で買うことになるね。私が不在の時は、ナツキが教えてくれるはずだ」

 先生の言葉に、ナツキがぎょっとした顔を向けた。

「それって、おり込み済み?」
「教えることが理解を深めるからね。それに冬休みになったら、私は個展で出払うしね」
「あ、そっか」
「ナツキは私の甥っ子なんだ。もう六年近くやってるよ。先輩だな」

 先生のプレッシャーに、ナツキがうげぇと声を出した。
 夏休みと冬休み。学園が長期の休みに入ると、先生もまた、個展や展示会で島を出るのだ。二週間以上いない時もある。

 これまでにも、数人の生徒が来たことがあるが、いずれも長続きしなかった。
 一日に四時間程度やったからといって、目に見えて上達するものでもない。
 土練り三年などという言葉があるが、しっかり空気を抜く菊練りの習得にも、そこそこの時間が必要なのだ。三年というのは、いささかオーバーな表現であるが。

「そう言えば、トーマくん。さっき、ナツキとレイヤーの話をしていたね」
「はい。でも僕、診察に行ったこともないし」
「そんなの簡単だよ。今からやってみるかい?」
「えっ?」

 先生が取り出したのは、分厚い陶材のカタログ。釉薬をかけた茶碗の写真がずらりと並んでいるものだった。
 同じ釉薬をかけたものが二つずつ並んでいる。酸化焼成と還元焼成。焼き方でまるで別物になるのが陶芸の面白いところだ。

「うちは電気窯。酸化焼成だよ。なので左側の色が出るんだ。右側のは還元焼成。だから、取り敢えず左だけ見ててくれないかな」
「は、はい」

 いきなり知らない言葉が出てきて、トーマはきょとんとしていたが、結論から言えば彼もまたレイヤー持ちだった。

 展示室の棚にズラリと並ぶ作品。先生がその中から幾つか選んで、カタログの写真で釉薬当てをさせたのだ。

 南国のビーチを思わせるトルコ青釉。素地が白土なので、まさにトルコ石のような色に仕上がっているが、トーマは現代釉の水色を選んだ。
 茶色のそば釉では、黄瀬戸。織部釉では、さんざん迷ってから青ガラス釉を指さす。

 どれも明るめを選ぶのは、ナツキと同じだった。
 ただ、ナツキはもう釉薬の名前と本来の色を頭に入れている。微妙な色の変化となると難しいが、自分が見るものは数段ライトなトーンになるのを知っているので、頭のなかで調整が可能なのだ。

 それは、トーマの膝の上にいるノーラについても同じだった。
 見た目は大型犬でも、本来は普通の猫である。
 背中を撫でようとして、手のひらが空を切ることをトーマは繰り返していたが、ナツキには大きさの補正は出来ていた。
 ただ、ノーラが大きく見え始めたのは、この島に渡ってからのこと。ふらりと家に入ってきた時には、痩せた子猫だったのだ。

 中学一年生の夏休み。先生は島を離れていて、ナツキは一人で作陶をしていた。
 夜の八時すぎ。ガタガタッと大きな音がして、彼はようやく台風の接近に気づいたが、とても寮に戻れる状態ではない。寮母に電話をすると、外に出るのは危険だからと、工房で過ごすように言われた。

 不安だった。
 建物の背後にある大きな森から、ゴオオと地鳴りのような音がする。幸い雨戸は閉めていたが、叩きつけるような雨音がずっと続くのだ。
 ふたたびガタガタと音がして、ヒッと息を飲む。しかし次に、彼の視界に飛び込んできたのは、のんきにあくびをする大きな猫。
 今度こそナツキは悲鳴を上げていた。

「ところで、トーマくんはハーフなのかな?」

 先ほどナツキが疑問に思ったことを、先生が少し遠慮気味に質問した。
 訊かれた側は、素直に頷いて返す。

「お父さんが外国人だったんです。もう離婚して、今は日本人のお父さんですけど。妹がいるけど、僕だけハーフなんで、ちょっと浮いちゃってます」

 中学一年生のわりには、淡々とした返答だった。何度もされてきた質問なのだろうと、ナツキは思う。

「嫌なことを訊いて悪かったね。すまなかった」

 先生がいつものように、スッと謝る。相手が子供だからといって、上からものを言うようなことを彼はしない。それは、陶芸の教え方にも反映されていた。決して押し付けるような指導はしないのだ。

「えっ? いや、そんな。僕こそ、すみません。愚痴っちゃって」

 しどろもどろで顔を赤くしているトーマを見ながら、複雑な家庭環境のわりには曲がってないなとナツキは思う。それとともに、幼い頃の自分は、ずいぶんと叔父の手を焼かせたとも。

 十五年前の直下型大地震は、ひとつの地方都市を壊滅させた。
 その時にナツキは両親を亡くしたが、三歳だったので、何も覚えていない。
 ただ診察した医師は、その時のショックが記憶のどこかに残っているのではと言っていた。

 十五年前の後遺症……。
 そこまで考えて、ナツキはハッと顔を上げる。
 トーマは中学一年生。地震の時には、まだ生まれてもいない。なのになぜ、レイヤー持ちなのだろう。

 ナツキの視線の先で、再びノーラに顔を舐められながら、青い目の少年が笑っていた。