見出し画像

学び逸れつつ継承するもの(見田宗介=真木悠介追悼)

※月刊「アナキズム」第26号(2022年5月1日)の再録記事です。

文=ハーポ部長

 社会学者の見田宗介さんが先日亡くなられた。東京大学名誉教授にして、多くの弟子たち を輩出した「見田社会学」のグル? 学生時代に社会学をかじったので名前だけは昔から知っていたが、長年、自分の世界とは関係のない人だと思っていた。

 今回、編集部から見田宗介さんの追悼文のようなものを書いてくれと言われ、正直、戸惑った。ひとつは先に書いた通り、緻密で深遠な見田社会学を僕のような学の浅い人間が理解できているとは思えなかったから。もうひとつは依頼された媒体が「アナキズム」誌ということを知り、甘粕正彦という悪名高き人物を思い浮かべ、ギョッとしたからだ。見田さんの父、マルクス経済学者の見田石介氏の旧姓は「甘粕」であり、甘粕正彦は彼の従兄弟だ。 甘粕の姓を継承する可能性もあったわけで、このことが見田宗介の思想にどのような影響を与えたのか、与えなかったのか、個人的に気になっていたのだ。

 一方でなぜ自分に矛先が向いたのかも即座に理解した。僕は下北沢で「気流舎」という小 さな書店を仲間と共同で運営していて、その店名は、創業者が見田さんの別名義である真木悠介の『気流の鳴る音』から拝借したものだった。店名の由来になった本は、売る側も買う 側も扱いやすい。店番しているときに「何かお薦めの本ありますか?」と聞かれると、迷うことなくこの本を薦めてきたし、実際にたくさんの人に手渡してきた。

 この本は「われわれの自我の深部の異世界を解き放つこと」というすごい言葉で締め括られる。見田=真木の本は、どれも誰もが抱える「個人の切実さ」を問題にしていたから、下北沢でショッピングに興じる若者にも、ドープな精神世界の旅人にも、自信を持ってお薦めできた。特に『気流の鳴る音』は、「世界」の自明性の罠に気づき、別のやり方で<世界>を見ることを教えてくれる文庫サイズのパスポートのようなものだった。

 初期の気流舎に集う者たちの切実な問題意識のひとつに、80年後半にイギリスで起きたダ ンス・ミュージックのムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に端を発し、90年代後半あたりに日本でも盛り上がった「レイヴ・カルチャー」のなかで得た内的体験をどう理 解するか、というものがあったのだと思う。各々の中で爆発した「明晰を超える明晰」体験 をどう言語化し、自分の人生の諸問題と向き合うか。1968年以降の感覚の変容=変革の意識がぎっしり詰まった『気流の鳴る音』には、その探求のためのヒントがたくさん散りばめられていた。

 「全身の血が入れ替わるような体験」をしたインド一人旅、メキシコの長期滞在、ブラジルとラテンアメリカ諸国の旅の終わりに、一気に書かれたこともこの本の大きな魅力だった。頁から旅の風が感じられるのだ。『旅のノートから(シリーズ旅の本箱)』の単行本の真木の略歴には、学歴や職歴の類が一切書かれておらず、代わりに記されているのは20年に渡る旅の記録だった。

 真木悠介は見田宗介からの「家出」だった。呪術や幻覚性植物など、超越(トリップ)を 志向/嗜好する「永遠の少年性」において、真木悠介は僕らの仲間のような気がした。しかし、もちろん、そんな次元の人ではない。老賢者のような明晰な知力と、詩人のような瑞々しい想像力で切り開かれた「見晴らし」に、僕らはどれだけ魅了されてきたことか。シャー マンを論じる真木悠介自身が「テクスト・シャーマン」だったのではないか。だとしたら遺された著作群は何を意味するか?

 見田=真木さんの死は、彼の作品の一部=魂のラベルを文借(あやかり)した小さな書店に、思想や文化の継承という切実な問いを残した。

「気流の鳴る音」ギャザリング
2022年12月24日(土)、25日(日)
営業時間:14:00~23:00


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?