見出し画像

むかしむかし、病気になった〜⑮人生色々

入院8日目。退院前日。
冬生まれの私は二十歳の誕生日を迎えた。

友人からのおめでとLINEに、
「手術しました。入院なう」と軽く返せば、
「え、え、マジか、どした」と、めでたさ吹き飛ばして心配してくれた。

「元気?」とか「変わりない?」とか、相手が肯定してくれる前提で、挨拶みたいに使っていたことを反省する。
久しぶりに連絡取ってみたら、元気じゃないとか、変わりがあるとかいう可能性は大いにあるのに。

成人式は二十歳だった私の頃。
もうすぐ成人式だった。

成人式は当たり前に行けるものだと思って、ウン万円する振袖を選んで、当日のセットも予約して……


なくて本当によかった。

成人式に行く気なんて全くなかった。
病気が分かる前から全くなかった。
なんでわざわざ、窮屈で動きにくい服を着て、眠くなること確実なおじさんたちの話を聞きに行かなきゃならんのだ。なんでわざわざ、さよならした同級生の顔を見て、さよならした自分の黒歴史と再会しなきゃならんのだ。

だから何の予約もしていなかった。
陰キャで会いたい同級生もいない私、ありがとう。
おかげでキャンセル料払わなくてすんだよ。
まあ、最初から他の家庭が払っている着物代をうちは払っていないことに、お得感で満たされているが(これを得と呼んでいいのかは賛否あるだろう)。


私は、行きたくなくて行かなかった(+行けなくなった)から何の問題もない(以後、ニュースで成人式の映像を見ても、自分がその場を経験していないから年下に思えないという弊害はある)。
でも、もし行くつもりだった人がこうなったとしたら、問題も不満も大いにあるだろう。傍から見れば、成人式不参加という結末は同じなのに。

行きたかったのに、行けなくなった人。
行くものだと思っていたけど、行けなかった人。
行けなくて、行かなかった人。
成人式じゃなくて推しのライブに行った人(私の姉)。

みんな、事情はいろいろだ。
いろんな経緯があって、今、目に見えている行動をしている。

そうやって他人を一人一人として見て考えるのは、果てしなくて、おもしろいけれど、やりすぎると疲れる。基本的に「他人とは、自分以外の生きている人間」という雑な認識で構わないのだろう。

それでも、バックグラウンドまで存在しないことにするのはよそう。
自分には理解できない行動を取る人は、自分には想像もできない経験をしてきたのかもしれないし、自分と同じ行動を取っているとしても、自分とは違う過程でそうしているのかもしれない。

なんて、深つまらん話を考えてしまうほどには、今回の病気は大きな経験だった。

いや、だって人生、何が起きるか分からない。
もし分かっていたら、病気になる前に保険に入っておいたのに。
使うと分かっている保険は保険じゃないけれども。
だってさ、卵巣嚢腫は慢性疾患に入るから、5年は効かないんだよ。
若いくせに入れない保険があるんだよ。保険料高くなったりするんだよ。
「若いうちから保険に」
とはよく言う。
でもその「若い」がまさか10代で手遅れになるとは誰も思うまい。

当たり前のものが当たり前じゃなくなるのはいつだって一瞬だ。
明日、1時間後、1分後、死ぬかもしれない。
1分後、お腹が痛くなるかもしれない(これは私の場合かなりの確率で起きる)。
とりあえず今この瞬間は、何も痛みもないことのありがたみを噛み締めて生きていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?