人間嫌いが文章に出てしまってると気づいた


自分のnoteを見返していて思った。
こいつ、人間のことあんまり好きじゃねぇな?

我がnoteながら、あまりに人間と距離をとりすぎている感がある。
まぁ、リアルでも他人とは距離をとって生きているので、文章だって当然そうなる。中身が同じなので、喋ろうが書こうが出てくるものは一緒だ。統一感があってよろしい。


人間と会話するのは別に嫌いでもなんでもない。だが、初めましての人間と対面した時の緊張感がしんどい。

対面し、さらに会話を伴うとなるとなおさらしんどい。見知らぬ相手に対して観察、警戒、許容範囲を確認しながらの会話…これらを同時にこなさなければならない。

本当は別にこなす必要なんかないんだけど、幼少期の刷り込みであり呪いのようなものなので、未だにそこから抜け出せないでいる。

そして、会話が終わって「また会いましょうね〜」などと手を振ってお別れする頃には緊張と警戒から頭痛が起きている始末だ。


こんな有様なので、カバンにはいつも頭痛薬を入れて持ち歩いている。ここ一年くらいは水筒を持ち歩く生活もしているので、頭痛薬をすぐに飲めて良い。
おすすめの水筒は象印のシームレスせんシリーズだ。



人間と関わることが得意な人生だったら、こんなことは起きなかっただろうか。
そう思うことがしょっちゅうある。

人間とうまく関わることができたなら、大勢の人間と楽しく会話したり、会社員として昼休みの談笑にうまく入っていけたり、取引先といい感じに交渉したり、まぁ色々と今できてないような事ができたんだろうなと思う。


自分にない強みを持っている人を見ると、やっぱりいいなーと思うし、こうなれたらなーとも思う。

だけど、人間の持って生まれるものって画一じゃないし、他人からみたら長所まみれの人間でもきっと何かしら悩みはあるんだろうなとも思う。


こういうことも、他人との会話の中で実感するとかではなく、大抵自分の頭の中だけで考えている事ではあるんだけど。リアルでこういう話をすることがほとんどないため、人間と関わる事が少ない人間の脳内として、一部ここに吐き出しておく。



まぁ、自分が大勢と関わることを幸せと捉えているなら、もっと人と関わろうとしているだろうな。
関わらずにいるってことは、これはこれで満足してるって事なんじゃないか?とも思う。


死ぬとき1人なのは嫌じゃないの?寂しくないのか?と聞かれたら、そりゃ寂しいだろうなと思う。
でも、生きててもずっとひとりだと思ってるから、人生のはじまりも終わりもあまり変わりないのかなとも思っている。


他人との繋がりは、人間が望む最も根源的なもののうちの一つだ。
ようは程度の差じゃないか?という気がしてきた。誰であれ繋がりを求める心はあるが(全くない人も当然いるだろうが)、それが大きいか小さいか。そういうことじゃないか?


自分の中で人との繋がり以外に満足している事があれば、それで満たされる人生も悪くないと思う。
自分で自分の機嫌を取るというゲームを続けていくには、結構根気がいるな。自分が正気でいると思えているうちに、書き残せるものは残していきたい。

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