地鳴り
匂いがする。
新調したはずの長袖なのに、だ。
クローゼットの前に座りこんだ私は今、前の前に使っていた柔軟剤のそれと限りなく近いことに腹が立っている。
今年に入ってからダウンにコート、お気に入りのニットに至るまで全て処分した。
それなのに買い置きしていた新参者であるはずの長袖シャツが、体の底から地鳴りを連れてくるのだ。
ー9月18日
寒くなる前に新しい服が欲しいと言い出した。
いつも寒くなってから揃えるのに、この日はめずらしく買い物に付き合わされることになる。
3つ目に入ったお店の右手にあったマネキンが着ていた深い緑の長袖シャツ。
案の定、見つけてすぐに試着もせず買った。
帰ったらファッションショーが始まると思ったが、その日は「疲れた」と言ってベッドに入り少し荒い寝息がすぐに聞こえてきた。
ー10月7日
そう言えば、と言って引っ張り出してきた深緑の長袖シャツ。
袖を通して得意げにこちらを見る。
中に着ていた長袖のTシャツともよく合っている。それを見てとても嬉しそうだ。
袖口を指でそっと引っ張りながら、
「ここに使っている糸がお気に入りなんだ」と言うので覗いてみると、袖口の返しに使われている糸だけがクリーム色になっている。
この日、どこに出かけるでもなく、部屋の中で袖口を引っ張りながら嬉しそうに過ごす彼を見て、私の中にふわふわしたものが増えた気がした。
—10月19日
この日はふたりとも休みだったので出かける予定を立てていた。着替えてきた彼をみて、「あのシャツは着ないの?」と聞くと、「あのシャツはのっこちゃんのお父さんへ挨拶に行くときに着るって決めてるんだ」と言った。
遠回しのプロポーズである。嬉しい気持ちもあったのは確かだが、私は家庭を持つことにあまり興味がない。
本当のところ父は誰だかわからないし、母は12歳の夏、私を置いて男と逃げた。家族を知らないのに、家族を持つことに違和感があったのだ。
当然そんなことは言えないので両親が離婚している、とだけ伝えていた。この時私はにっこりと笑って「楽しみにしておくね」と返した。
ー11月2日
出張続きであまり顔を合わせない日が続いていた。私は仕事が忙しく、彼のことを考える余裕はほとんどない。彼もまた私が帰宅してもいないことが増えた。そんなことを気にもしていない時間が続いていたのだ。
この日の夜のことはよく覚えている。
窓からの静かでツンとした空気に触れるまで、季節のことなど忘れていたからだ。ふと長袖シャツを着た彼を思い出し、ふわふわした気持ちで明日は早く帰ろうと考えながら眠りについた。
—11月3日
朝起きると彼がソファで紅茶を飲んでいた。「おはよう」と声をかけ、振り返った彼の顔は別人のようで、またふわふわした気持ちがすぅっと消えてしまう。
彼はこの日もそわそわしながら私との時間をやり過ごし、ジャージのままどこかへ出かけていった。
一緒に過ごすようになって3年。このまま彼は出ていくのかもしれないなと、どこか他人事のように思いながら毎日を過ごしていた。
ー11月24日
仕事の打ち合わせが終わってトイレで一息ついていると、彼の妹から着信があった。
電話に出ると何やら消え入りそうな声で泣いている。
ぼそぼそと話しだしてからは静かなのに、よく聞こえなかった。
おそらく私は全身で聞くことを拒否していたのだ。
声が出ずにただ震えていた。
「おにいちゃん、血だらけで・・・どうしよう。刺されて・・・意識がなくて・・・のっこちゃん、どうしよう」
状況が呑み込めないままだったのに、病院名を聞いた瞬間にぞっとした。
母が今住んでいる街の総合病院だったからだ。
偶然だと思いたい。
ずっと会うことを拒否し続け、住所もバレないように気を配っていた。
そんなはずはないと。
すぐに病院に駆け込んだが面会はできなかった。
待合でぼぅっと座っている彼の妹に声をかけ、詳しい話を聞き出してわかったことはこうだ。
・通報したのは中学生の男の子。
・腹部を1か所刺されている。
・市内アパートの1室で大量の血を流して倒れていた。
・その部屋の住人は通報した中学生と母親で、母親は現在行方がわかっていない。
・中学生が帰宅すると母親はすでにいなかった。
間違いなく母の犯行だと確信した。
彼がなぜ部屋にいたのかも最近のそわそわした雰囲気と繋がってしまう。
なぜ気付かなかったのだろう。
母が彼を刺した理由も察しがついている。
頭を抱えてうずくまっていると、彼が息を引き取ったと静かに告げられた。
人が死ぬときはもっとゆっくり時間が流れると思っていたけど、何も考えられないまま時間が過ぎていた。
それからの記憶がほとんどない。
そしてついに母は見つからなかった。
私は血眼になって探していた。
目的はひとつだ。
真相がわからないまま時だけが過ぎ、4月になろうとしていたある日。
通報した母の息子が訪ねてきた。
私の弟にあたるその男の子は、とても綺麗な顔でこう言った。
「母は男の人と一緒だと思う。」と。
「私に報告した意図はあるの?」と聞くと、彼はこう答えた。
「殺したいと思ってた。やっと男の家を突き止めたんだ。」
よくよく事情を聞けば、母の彼氏から日常的に悪戯をされていて、母はずっと見て見ぬふりをし続けていたと。
体の底で音が聞こえた。
この瞬間、改めて母を葬ることを決めたのだ。
弟と一緒に母がいそうな場所を片っ端から調べつくした。
当然男の家にはおらず、男だけが部屋に帰ってくる。
弟はこの男と絶対一緒だと言うので翌日、男を尾行した。
すると小さなホテルに入っていく。ここで間違いなさそうだ。
作戦をたてようという弟の話を遮り、男が帰ったタイミングで私はひとりで母がいる部屋を訪ねた。
警戒こそしていたが、思いの他母は私をすんなり部屋へと招き入れた。
逃亡生活に疲れているからだろうか。
ひとまず促されるまま座って話をした。
言い訳を聞くつもりは毛頭なかったが、どうしても彼が刺された経緯をきちんと確認しておきたかったからだ。
母は開口一番「わざとじゃないのよ」と言い放った。
こちらが怒りを覚える前に続けて口を開き、こう言った。
「彼がのっこと結婚式をする時に、サプライズで出てきてほしいと言ったから二つ返事で承諾したのよ。それからね、なんだかよくお金の面倒を見てくれるようになってね。あの日も呼び出したら当然くれると思ったのに、もうお金はないと言い出したからさ、ついカッとなっちゃって。悪いと思ってるんだ。」
誰にもわからないかもしれないが、こういう発言には驚くこともできなくなっている。
母がこういう人間だとイヤだというほど知っているからだ。
幼少期に植え付けられた母の黒い人格そのものが、まだそこにあった。
そして世の中には本当にこういう人種がいることを理解しているようでほとんどの人は理解していないということを痛いほどわかっている。
この時また体の底からぐらぐらと地鳴りがした。
怒りの音だ。
「そう。」
私はこの一言だけ返して席を立った。
そこからの記憶はあまりない。
気が付いた時には母の白いカーディガンは真っ赤に染まっていた。
見下ろすと母はうなるように、私の足を掴んで何か言っている。
でも何と言っているのかはわからない。
本当によく覚えていないのだ。
母を振り払い、すっきりとした足取りでそのままホテルを出た。
私の様子を見て何も聞かない弟を家に帰し、数時間が経ったろうか。
私はまだクローゼットの前に座っている。
そろそろ長袖をしまわないといけない。
深緑の長袖シャツを羽織り、顔を手で覆うと袖口から匂いがする。
体の底で、また音が鳴っている。
3000文字チャレンジ第80弾【衣替え】
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※フィクションだよい
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