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状況論を学ぶ #2 『状況のインターフェース』第1章

さて、今日は第2回ということで、
前回に引き続き『状況のインターフェース』の続きを読んでいきます。
今回は第1章、西阪仰先生の「実験心理学における視覚の「無視された状況」」。

いやーちょっと今回は難しい笑
あんまり何をいっているのかよくわからなかった気がします。
とりあえず書いてみます笑

見る、から考える

まず初めに
「見る」ということを考えてみる。
人間がモノを見る時、三次元の何かをみて、それが網膜に「二次元」の像として映るというプロセスを踏む。
だけど、人間はそれを三次元のものとして知覚する。
これってどういうこと??
っていうところから話が始まります。

そしてこれに対する問い直しが出てくる。
いやちょっとまとうよ、これって要するに空間は、数学で習うように、
x軸とy軸とz軸から構築されるもので、
線が面をつくり、奥行きが生まれて空間になる
みたいな発想が前提にあるんじゃない?でもそれって違くない?と。

H. ワラックとD. N. オコネルの実験から考える

試しに、人間の網膜と同じようなものを実験としてつくったとして、
そこでどうやったら影が三次元的な、立体的なものに見えてくるか
みたいな実験をやってみる。
これはH. ワラックさんとD. N. オコネルさんによる「動きによる奥行効果(kinetic depth effect)」の実験らしいのだけども。有名らしいっすね。
そうすると、実験を「みている」立場からすると、三次元の形が、二次元のスクリーンに投影され、なんかいろいろ動かしたりなんだりしてると、三次元の影が立ち現れるタイミングとかが観察可能になってくる。
ほらね、二次元から三次元が出てきたでしょ?っていう。
x軸とy軸からさらにz軸みたいなものが出てきて空間が見えてくるじゃないか。数学的じゃん、と。

はい、それはわかりました。
でもね、人間の視覚の場合はどうかというと、別に誰もこの実験みたいに、人間の視覚プロセスを観察していないはずなんですよ。
じゃあなんで三次元が立ち現れてくるの?それ誰が「立ち会わられてくる」ことの証人になるの?っていう。

だからさ違うんじゃない?
そもそも一次元→二次元→三次元っていう順番じゃなくて、
三次元であるこの世界を知覚しているという事実からスタートしたほうがよさそうじゃない?っていう話になってくるわけですね。

なんなら、さっきの三次元物体から、二次元網膜像がつくられて、それが三次元のものとして知覚されるみたいなプロセスはいいとして、
その過程が具体的にどんな過程なのかというよりも、
どういう状況でそのプロセスが起きるのかってのに着目してみた方がよくないすかね?と言い出すわけですね。

認知心理学で「無視されてきた」状況を取り戻す

はい。ここまでは前置きだったらしいです笑
これが第1章のテーマ。さっきの「見る」の話に乗っかるなら、
「見ること」は人間の体の中で起きているプロセスなんじゃなくて、
ある状況において、「公的に」達成されるものだよね。
そういう話をさせてくれよってことでした。

公的な達成

ここでいう「公的な」というのは、その状況に他者が存在しているという意味だと思われる。

「見ること」は、見ることの主張(実際になされたものであれ、可能性としてなしうるものであれ)が、原理的に他者による(認知的もしくは道徳的)批判の可能性に開かれているにも関わらず、他者によって否定されずにあり続け、場合によっては他者からの支持を積極的に動員することをとおして、成し遂げられているのである。

p. 32

これはなるほどって思う。
「虹が出てる!」って僕が空を見上げて声を発したとき、仮に自分が本当に虹を見たと思っていたとしても、見えてないけどなんとなく嘘でそう言ってみたとしても(実際になされたものであれ、可能性としてなしうるものであれ)
周りの人たちが同じく空を見上げて
「あ、ほんとだ。虹だ」っていうのか(否定されずにあり続け、場合によっては他者からの支持を積極的に動員)
「え、虹なんてでてなくない?気のせいでしょ」っていうのか((認知的もしくは道徳的批判の可能性)
によって「見ること」っていうのは変わってくる。

ワラックさんとオコネルさんはさっきの実験を通して、三次元がどうやって知覚されるのか(それは奥行がでるために動きが重要な役割をしているのではないかという仮説を導き出すものだったわけだけど)ということを向き合ったのだけど、
西阪先生は、結局この実験で語られることって概念として論理的には成立しそうだけど、経験的じゃないよねという批判をするんですね。
二次元から三次元がうまれてきているっていう経験を僕らはしてないよねと。
この実験のベースになっている伝統的な誤った心理学的前提が、あるいはそのような心理学的実験での相互行為を、それに関わる人たち(参与者と読んでいる)がどのように組織しているのかに着目し、データで示していきたい。っていうのがこの章での試みだった。
ちなみにここで扱うデータ(この後でてくる)は、質的データです。

G. ヤンソンとG. ヨハンソンの実験を真似た模擬実験から考える

そこで、G. ヤンソンさんとG. ヨハンソンさんが行った実験を真似してちょっとした実験を試みている。
この実験は、正方形の辺がだんたんと変化し(斜めになったり)、また元に戻るまでの動きをコマ撮りで被験者に見せて、それに対して、どういう変化だったのかを「わん曲」「回転」「伸縮」から答えてもらう(ただし、3つ以外もあり得るはずだから、それはちゃんと説明してもらう前提)というものでした。

さて、その実験の結果というのは正直どっちでも良さそうなのだけども、
実験者と被験者の問いと答えのやりとりに大いに着目しているところがポイント。

会話の中で出てくるいくつかの標識

実験者「これは何に見えますか?」
被験者「これは、わん曲」
実験者「あ、わん曲に見えます?」
被験者「はい」
実験者「はい。じゃあ、次は…」

p.37(本文中の分析用の文章加工は反映しませんでした。)

上のようなやりとりが実際に紹介されているのだけど、ここでは
「あ」とか
「じゃあ、次」とか
そういう言葉が実験者側から発せられている。
ここで、それぞれの言葉の持つ作用に着目していて、
例えばこの「あ」という言葉には、相手(被験者)の答えに対して、価値づけをする作用があると。
例えば「じゃあ、次」みたいな言葉には、会話の流れを「ぶつっ」と切って、会話の展開と次の会話を切り離す作用があると。

つまり、会話(相互行為)として不自然じゃないってことだと解釈した。
ここでの「あ」とか「じゃあ、次」みたいなものたちは、
実験者にとっての便利な道具で、
被験者とのやり取りの中で生まれる価値のある発話に対して、価値があることを伝える手段になったり、あるいはやりとりが実験の本質から逸れて行った時の軌道修正の手段として使えるものなのではないかと。
もちろんやり取りの中でも偶発的なリアルな対話もあるのだけど、それでもそこにはまだ実験のためのやりとりとしての要素がしっかり入り込んでいる。繰り返すとつまり「不自然さ」がそこにあるということ。

コールセンターとの会話の例

コールセンターに電話をすると。
コールセンターの担当者さんから聞かれる質問に対して、端的に回答して価値のある情報を伝えるのに、それを価値のある情報として受け止められない。
具体例として出されていたものは、下のようなやりとり。

担当者:ご住所、お名前、電話番号。
話し手:はい。えーっと住所は、XXX
担当者:スカイハイツの、Cの?
話し手:601です。
担当者:601。
話し手:はい。
担当者:お名前は?
話し手:青木と申します。
担当者:はい、お名前の方も教えてください。
話し手:ブンタといます。
担当者:ブンタさん。
話し手:はい。
(後略)

p.46(本文中の分析用の文章加工は反映しませんでした。また一部編集しました。)

「あ」とかでてこないわけ。
考えてみれば確かにそうで、向こうにとって必要な情報を答えているのに、「それ、私にとって価値ある情報です!」っていう符号を返してくれないんですよね。これもまた不自然な。

さらに、アナウンサーとかインタビュアーの例も登場し、
彼らも「価値のある情報ですよ」という表示をあまりしてくれない。これはどうしてか。

さっきのコールセンターの担当者もアナウンサーも、組織やコミュニティを代表しているという立場があることで、積極的に「あ」みたいな、価値づけの言葉を使わないこと(無意識的に?)で、個人的なものでなくしているのではないかと。

相互行為は社会的に組織されるもの

いずれにせよ、人々はさまざまな場面(日常的な会話、実験でのやりとり、コールセンターへの問い合わせと応答、アナウンサーやインタビュアーによる質問など)で、言葉の中の便利な道具をいろいろ使い分けていて、
その道具を使ったり、あるいは使わなかったりすることを通して、
その場がどういう状況であるのか、どういう相互行為の場であるのかっていうのをうまくつくりだしている(社会的に組織している)んじゃないのかっていう話でした。

いろいろ途中で話が展開して、あっちゃこっちゃしたような感じだったけど、最後にはちゃんと実験の話までしっかり戻って、
「見る」ということは、
正統派認知心理学の考え方では、人間の身体の中(皮膚界面下)で起こると考えられるけど、
状況論の視点では、相互行為によって生み出される状況での、特徴なんだよねと。しかもそれは個人ではなく、他者や環境との相互作用によってうまれてくる「公的な」ものだよね。と結論づけてました。
逆にいうと、実験場面のようなところで、便利な道具(言葉)が使われたり使われなかったりすることによって、本来的な相互行為の展開が歪められたり、絶たれたりしてしまうことが、心理学実験における相互行為として組織されているっていうことだと。

ちなみに、読み直しながら書いてみたら非常にスッキリした。
なんとなく言いたいことわかった気がする。
アウトプットって大事だな。

今日わかったこと

・人間の知覚は相互行為によって状況として生み出されているもので、人間の身体の中で起きているプロセスに矮小化されるべきものではないということ。
・単純化され、定式化された、論理的なものよりも、経験的なものを重視することにも価値があるということ。

よくわからなかったこと

・結局すべてを相互行為としてみていく視点を持つことを重視していると解釈したのだけど、それによって何を明らかにしようとしているのかまでがまだ掴めていない感じがします。
・例えば、本文中(見るについてのところ)で「生理的過程の存在を否定するものではない」というようなことを言っているのだけど、それは否定せず、その状況を把握することによって、何が見えてくるのだろうか。
・この考え方を社会に応用して考えていこうとしたときに、具体的にどういうふうに活かしていけるのかがあんまイメージできない笑。

次回は第2章を読んでみます。

書籍情報

上野直樹編著(2001)『状況のインターフェース』金子書房 p.1-23




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