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「あみもの第十七号」に寄せて

 元来感想を書くのは好きなので、ひとにばかり書け書け言ってないで書きます。前提をお伝えします。今さらかとは思いますが最近改めて感じたことに、歌の善し悪しはよほどとびぬけない限りただの好みで決まるというのがあります。それと私は誤字を生むのが大の得意です。頑張りますが誤字脱字ありましたら指摘してください。先に謝ります。誤字してごめんなさい。(重要なのは誤字じゃないはずなのに)

p.s.
 書き終わったのでこちらでさらりと全体の感想を。連作という形を使った作品が多かったですね。一首詠むのとは違う取組で楽しんでいらっしゃって、読む私も楽しかったです。テーマが突き抜けているとこれだけの作品数の中でも目を引きます。私のはこの数であの歌じゃ、そりゃもう読み解く力も残ってないよね……と反省。うん。次回に生かそう。(生かせるかはわからない)

では、さっそく。(あ、長いです。)

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 エビフライ、二尾/たろりずむ

店員に美人ひとりとそうじゃない人が三人いるカフェで待つ

 あー、たろりずむさん。たろりずむさんですね。(誰)この始まりだけでこのあとのこのボリュームの中で何が書かれるかがたのしみになっちゃいますよね。待ち合わせの相手が、美人かそうでないかに関わらない人であることをまずは願う。

小さめの袋にフランスパンを入れフランスパンを買ったアピール
隣客が注文をした中トロのあとに流れる中トロを待つ
注文はチャーハンですね注文を繰り返しますチャーハンですね
シウマイのふたをあけたらシウマイのふたにくっついてくるシウマイ

 この連作のタイトルってそのまま想像すると重いんですよね。エビフライ、二尾も要らないの。わたし。(しかもタイトルになっている歌では衣がアメリカンドッグほどあるらしいのでさらに重たい)それでこのあたりの歌たちはおんなじ言葉を繰り返すんです。なんなら一首の中で二つの言葉が繰り返されてもはや注文とチャーハンしか言ってない歌もある。引いてないけどウンコは三回も言ってる。重い。もたれる。でも心地よい。どうしてだろう。景が押しなべて身近な「あるある」なおかげでクスリとできるせいか。(もはや『あるある』すら『ある』の繰り返しに見えてきた)繰り返す言葉の音が重なって耳で楽しめるせいか。

この親子丼と卵の鶏肉が実の親子でありますように

 って思って読んでたら結びがこれ。かなしい。なにがってもう、それを願ったところで命が尽きていることで、そこに親子の喜びは絶対にないことで、それでもそうだといいなと思ってしまう傲慢な自分が悲しい。こんなところを攻めてくる連作だったのか。たろりずむさんは首を縦に振らなそうですけど。その悲しさは四種の歌にも大盛の歌にも通じていてやっぱり好きだ、たろりずむさん。

孤独座/ルナク

ほんとうはそれぞれ孤独な星だけどつないで創るあらたな星座

 なんだかツイッターみたい。繋がれる場所があると良いな。繋がる人がいるといいな。孤独座何て名前じゃなくなるといいけど、それでもやっぱり孤独感は消えないんだろうな。たまにね、ふっと消えてしまう人を思い出しては、SNSとリアルの違いを知るんだ。だからやっぱり名前は孤独座がいいかな。

湘南が遠くなっていく◆/小俵鱚太
湘南が遠くなっていく◇/エノモトユミ

このふたつは第十七号のあみものの代表にしていいと思うの。(本当になに目線)いや、連作ってこうだよね、×2=何乗? ニ作とも七首目から出会うねんけど、小俵さんのは出会ってからが大好き。一気に感情が出てくる。出会う前は感情は書いてるねんけどあんまり感じられなくて。「吐露」「笑うしかない」あたりで読む私の心が軽くなった。大好きなのはこれ。

隠さずに訊けば素直に応えきてむしろおれから吐露する流れ

 「おれ」は勇気のいる話を振ったようで、思いのほか容易に応えてくれてしまったから「おれ」も言わざるを得ない。けど「素直」に込められた感覚がそれが嫌でないことを感じさせてくれる。上の句のか行の少しぎこちないところに、下の句の怒涛のら行が明るい流れを作る。出会えてよかったね。

「主任」といういらぬ肩書きついた春 東京の街は黄砂で霞む

 反対にエノモトさんの方は出会う前の切なさが心に残る。上記の歌は、なんだろうな、すごく嫌なぶぶんを突いてきていて、春なのに、昇進なのに、ひとつも喜べない自分がまたいやになる歌。これって性別関係なくわかる歌なのかな。年齢は飛び越えるのかな。そうであってほしいな。

なくしもの似ているせいだ楽しげにまた明日ねと小さく手をふる

 これはね、ふたつ好きなところがあって。ひとつは下の句。「小さく手をふる」ってフレーズはあまりにもありふれてるのにこの連作のこの上の句のあとにつけられると愛しくてたまらないんだ。「小さく」でなければならないんだ、ここは。「主任」の「大人一人」の「わたし」が手をふるんだ、明日の約束に。なんて可愛らしいんだろう。出会えてよかったね。ふたつ目も、関連するんやけど、ひらがなの使い方。「なくしもの」「ふる」がひらいている。連作の最初の歌も「まとう」「あかるい」がひらいているのね。これは幼さや青々とした夢を効果的に表してると思うんだけど、後半にくるこのひらがなで、この歌で、「わたし」が少女のように見えるんだ、今度は自分と切り離していない実態として。いやあ、なんていうか、うん、出会えてよかったね。(しつこい)

と、ここで。

「湘南が遠くなってゆく」の完全版がPDFにて配信

されておりますので、あみものとは異なりますがこちらにて続けて感想をば。ただ、一首引くことはしない。これは全体として作品なのだ。連作は常にそういうものであると思うが、こういった感想の場ではつい気に入ったものを引きたくなるもの。これはちがう。全部が連作のための歌なのだ。

 完全版ではあみものに公開された歌よりも季節の移り変わりがよりはっきりとした名詞で描かれる。慶太と祐子が本当に交わったのはわずかな時間であった。半年以上経っていてもそれは心の奥で「卵の黄身」のように、どろりと、たしかに横たわっている。

 似た者同士はときに重すぎるのかもしれない。とくに、こんなに不器用で言葉足らずなふたりには。一年が経つころ、同じ紫陽花を目にしてようやくふたりは過去と、過去から抜け出す途中のふたりのことを、本当に過去としてみられるようになってゆく。まさに、ふたりから湘南が遠くなっていくのだ。湘南を抜けた先には何があっただろうか。全部嘘、そんなことはない。たしかにあのとき、ひとりひとりのふたりとして、ふたりはいたのだ。

 さて、七尾旅人は本当に良い。サーカスナイトは言わずもがな、スロウスロウトレインはエンドレスリピートしているもの。ああ、湘南か。もう、夏だなあ。湘南。なんか、変なことを思い出しそうだな。終わりにしよう。(なおきちんと印刷しましたのでいつでも読める。嬉しい。)

Nからの報告/他人が見た夢の話

この星のひとりよがりな人類は地球が何座なのか知らない
意味なんか分からないけど怪獣の雄叫びだってその星訛り
豹の方を陸アザラシとするべきで七割海の星なのだから

 とことん他人、である。ちなみにおしまいにもうひと押し他人が挟まれるのでもはや友達の親戚、叔母の恋人、いとこの先生。だれなんだきみは。信じられる報告なのか。まあそこまで突き詰めるほどの報告でもないか。なにせ十割主観の報告なのだから。おい、N、とするとお前ここにはお前の主観も事実もないが、どうした。そういう役目なのか。それはそれで、難儀だな、ナンシーよ。

産声/袴田朱夏

 全十五首。児の産まれること、その儚さを危うく描く。経験のない私には言えぬことも多い。状況は人によって千差万別だ。なので最後の三首だけ。妻は母として、私は子を見て、子は子として、京都で過ごすのだ。ひとり、まだ京都に馴染めぬまま、私は父としてではなく、まだぎこちない子を見るものとして。あまりにリアルで(おそらく妻側が書いたらまた別だろうが)そうしてゆっくり産声を上げるのだろう。いま、産道を通っているのだろう、私も。

救いとしてのワンダーランド/架森のん

 最初の三首、皮肉として割れるワンダーランド。零時、給仕役としての客観的な主体は泣く。後半三首、現実と幻覚が分離する。自覚し、受容し、ついにアリスは捨てられる、「ただいま」の相手は知っていたのだろうか、アリスがアリスでなかったこと、それとも相手は自分だろうか。

かきちねん/藍笹キミコ

よこたわり まくらにかおを うずめれば あなたがなかに いてはるみたい
この波は私の為の声だから誰にも乗らせちゃダメだよ海よ
こころから 「あいしてる」って いえないな やさしくなれる よゆうがほしい

 連作に貫かれている寂しさの正体は何だろう。したっ足らずな首と饒舌な首にまぎれもないズレがある。大丈夫ですか。愛していますか。おびえていませんか。やさしくなれる余裕なら、一緒にいる人がくれるから。あなたは自分の中でお休み。枕の中にはだれもいないよ。

短歌の功罪/ひろうたあいこ

本当に深刻だったあの時にわたしに歌えるうたはなかった

 実感かなあ。ここまでの九首で実感として受け取っているから、これもそう受け取ろう。真実は知らないが。実感だとするならば「あの時」、「私」は短歌を知っていたのだろうか。知らなかったのだろうか。

口ずさむ歌があるなら幸せで足取り軽く生きていけるね

 幸せはそこにあるうちに心に刻まねば消えてしまう。淡いものなのだ。強く、強く、一瞬なのだ。歌を口ずさむのは幸せを幸せとしてとらえるためで、決して「あの時」に戻らないためでもあるのではないか。なぜなら私がそうだから。ここ、わたし感想の場だよね? だから言える。歌は歌えるうたがなくならないように今歌うのだ。

馬ですら働いている/秋

 いや、あの、引きたいんです。引けない、六首目。びびりだから、私。心が詠んでるよなあ。こんな歌、でなけりゃでてこないもんなあ。

馬ですら働いている何かしら肉に転職することもある

 これは、色んな人が似た気持ちをあらゆるものに持ち、歌にして生きているとおもう。私もこんな歌を詠みたいことがあった(上手くいかなかった)。競馬ファンや馬主には怒られそうな一首だ。でもここに蔑みはない。ただのリスペクトだけがある。「何かしら」とは、何者にも成れぬと自己を突き放したときにふと見えるもの。あるひとにはそれがハサミで、あるひとにはカップ焼きそばの湯切り口で、またある人には競馬場の馬であった、それだけのことだ。前半からの勢いは徐々に消され、気高い馬に足蹴にされたような気持ちで、最後に夢のない舞浜駅にたどり着く。働くとは、なんだ。使命を全うすることか。お金を巻き上げることか。昆虫を味方にするその能力で、生きてゆける術はないのか。

わんすあぽんあたいむ/み浦よし彦

7人の小人はてんでばらばらにひとりひとりのカナシイ小人

 七人の小人の、あのものすごい個性はひとりが七人に分裂したからこその個性の顕著な発露だと思うのだけれど。でも本当に切り離されてしまうとただただひとりのカナシイ、いやきっといったい何がカナシイかも当人たちはわからないカナシイ小人になってしまうだろう。わんすあぽんあたいむ、だれか、そうじゃない歌を歌って。わんすあぽんあたいむ、どうか、このままカナシイ私も愛して。

暇の国/若旦那

 アラームは遠くなり、黒き羊に唇を噛み、快速に乗り換えず、漱石を読み、飯を食い、花の名を思い出し、子らを愛でる元回遊魚。いや、回遊魚なれど、止まっても生きられているのか。だとすれば己を止まらぬ回遊魚と自負する者より、己を凡人と卑下する者より、道化師より、どれほど尊く今を生きているのだろうか。暇の国はここちよかろう。束の間の永久の国だろう。自覚的な暇であればいつまででも胸に置いてそのままゆこう。

背中をつたう冷たい汗/諏訪灯

 全体的にいやでいやでしかたがない。この歌をまとめていたとき、諏訪灯さんは、だいじょうぶだったろうか。私は、降参。冷たい汗は、体温を奪うのだ。

とりあえずビール/尾渡はち

 水滴がグラスをつたい落ちていく速度で春が終わったらしい

 果たして速いのか遅いのか。いや、そうじゃない。気づいたら。だってそうだろう、落ち始めも、落ち終わりも、見ていないだろう。見ていたとしたら。よほど考えることがなく、喋る相手もおらず、知りたい情報もスマホにないときである。そしてグラスの中のものにも興味がない。ただそれを「春」にかけたりはしないだろう。なぜなら「春」が「春」であるからだ。「らしい」と結ぶこの歌はやはりどこか水滴の落ちたことに懐疑的だ。速いのか遅いのか、どちらにせよ落ちてほしいとは思っていなかっただろう。

いい人は他にもいるって言われててぷつりと落ちてしまう枝豆

 前三首がするりと繋がる上の句と下の句だっただけに、ここの「言われてて」のい抜きで終わらせた感と「て」「ぷ」の否応でも途切れる発音とで枝豆の落ちる気持ちがぶわりと浮かぶ。音と景と感情が上手く絡み合っている歌だ。

とりあえずビールと言える安易さで夏には海を選べたらいい

 「安易さ」で、きみは、選べないだろう。選べる人はビールの上澄みを啜ろうとしないし、Nのかたちで泣いてしまうまで我慢しすぎることもない。きっとどこかで誰かに海に連れていってとねだれるだろう。「安易」よりも「真水」を湧きいださせるひとであれ。誰かにあなたのゆっくりの愛が伝わるから。(フィクションかもしれなくても感情移入することは悪いことじゃないよね、おわたりしゃん)

ズレ/鴇巣

 あのね、楽しい。これだけ忠実にズレるってむづかしい。あざとくもなくて、なんだろう、主体がずれているの?いや、だとしても自覚していないとここにこの連作は生まれないし、タイトルはこれにならないでしょう。鴇巣さんの、誰かたった一人を描いた連作が読みたい。焦点を絞った、生活の中のズレを。いや、べつにズレじゃなくてもいいんですけど。

ぼくのディズニーランドへどうぞ/真壁カナ

わかったわかった、やめたいのなら鴨になりぼくのディズニーランドへどうぞ
帰宅して靴をそろえて靴下の穴から魔法が消えるのを見た

 何をやめたいのか、鴨になる方がましなことなのか、それとも「ぼくのディズニーランド」がそれほどいいものなのだろうか。でも夢は解けてしまう。遠足は家に帰るまでが遠足で魔法は靴を脱ぐまでかかっていて、そこからは日常だ。走るしかない。

4126/藤沢かなた

輪郭を保てぬ夜に浴室であたたかさとの境をなぞる

 涙を流していましたか。涙はどこから私じゃなくなっていつから涙になって、お風呂の中でいつからお湯になるのでしょうか。あたたかさとの境はありましたか。肌より熱いお湯で温められた肌の熱さはそれでもお湯には勝てませんでしたか。私ならば胸骨に爪を突き立ててしまいそうになるような切なさでなぞるあなたが愛しい。

身体なる分かりやすさを指標とし満たされたなら今宵おやすみ

 うん、わかるところでね、そこで測って大丈夫ならそれでいいよね、身体がOKって言ってるんだ、心は知らない、知らないけれど見えないから知らない、とにかく身体はOKなんだ。ゆっくりおやすみ。しんとおやすみ。

中略の国/神丘 風

四捨五入してはなかったことにした端数が足に群がってくる

 四捨五入って苦手なんです、私。だって捨ててきた数字はどんなきもち?切り上げ切り捨てって誰の独断?数字に対して思うのは病的かもしれないけれど(だから私は数字が絡む仕事ができない)数字の先に人がいることこれはより顕著になる。怖い、怖い、と思ってきた正体はこれか。その場限りでなく。捨ててきた数たちはみな消えずにここに溜まっているんだ。自覚的に生きたいなあ、もっと、もっと。

はぶかれた中略たちの国らしくここには果てがありそうもない

 中略の国は中略されてしまったがゆえに果てが見えないのか。そりゃそうだ。引用された言葉たちは「-中略(56,228文字)-」なんて書かれたりしない。3文字だと思ってた?そういうこともあるし、そうでないこともある。とにかく見えないんだ。知ってた?

スポットライト/まるち

雑踏の一部となってすれ違うひとのいちぶを吸い込んでいる

 これはもうさっきからずっと命題なんだけれど、一体どこまでがわたしでどこからがあなたでしょうか。雑踏の一部となったとき私個人の意思は失せて、ただ雑踏のなかに酸素などを吸って二酸化炭素などを吐く一部にすぎない。そして同じ一部となった同体の一部が吐いた二酸化炭素なるものたちのいちぶは私の体に入る。して、意思のない雑踏の身体の中の二酸化炭素たちと吸い込んだ二酸化炭素は何が違うのか。私とあなたは何が違うのか。まるちさんの歌はラスト二首も大好きだ。確かめて疑って確かめて、「ほら」と無邪気に世界で遊ぼうとする。遊ぼう。どうせ不具合とあいまいだらけの世界だ。身体に熱をともして遊ぼう。

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 以上で、あみもの(一部個人PDF配布)からの引用と感想を終わります。なかなか多くて引けない方もいるけれど、引いて感想を書かないのもいやだし、感想を書くには体力がいるし。とかんがえると全首評を毎回されているひざさんの凄さが改めてわかりますね。

 それととにかく好き放題とっ散らかってしゃべっているので解釈違いもあるかと思います。「評」を書くというより「感想」なので私情をもりもりに込めまくっているからです。それも好き!と直感で思った歌たちなので、すみません、より感情だだだもれです。なにかみなさんにお返しできていたら幸いです。

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 と、ここで終わろうと思ったのですがたまには自分歌の解説でもしてみようかと思います。なかなかわかりにくいとのお言葉をいただきますので、申し訳ない気持ちです。自己満の歌ですが気になる人がいたら下記も併せて楽しんでください。気にならない人はここらで。ありがとうございました。(気にならない人用に先に締めておくスタイル)

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引き汐のとき/深水きいろ

 タイトル「引き汐」は潮の満ち引きの引いてゆくほう。よく「満潮」はひとの生まれるとき「引潮」はひとの死ぬときと言われます。今回はそれこそ具体的に死ぬことはないのですが、死のモチーフとして「帰る」ことをテーマとしています。去り際、引き際、心のおわり、そんなところです。

三百角タイルのあたらしいばかり欠かさず踏んで平等だつて

 まず三百角タイルって、そうか、これは業界用語か。盲目は怖い。これ、30cm四方のタイル、ってことなんです。主に外部の床材として使われる大きさです。割れてしまったタイルは一枚ずつ張り替えが効きます。でも張り替えるとどうしてもそこだけ色味が浮いてしまうのです。新しいからね。平等とは、それをそこだけを欠かさず踏んで色味を合わせることでしょうか。新しくても浮いていてもタイルの好きなように生きてもらうことじゃないでしょうか。ああ、帰り道、そんなにそこばっかり踏んで、平等だなんて言わないで。

くだりなら街もたんまりほころんで忘れちゃつてもカラカラ云ふね

 下りの道で自転車はかるーくかるーくカラカラ回る。景色も素早く去るし、ほころんでしまってよく見えない。けれどこの気持ちいい風とカラカラなる音と幸せな帰り道の時間は、たとえ細部を忘れてしまっても私の中にあるね。

庭のある街をわづかに早抜ける 母さん、わたしコロツケがいい

 田舎でも都会でもない、妙な立ち位置のエリアのマンション育ちのわたし。戸建ばかりの中でマンション族は少し寂しげだったんだ。母とはよく、夕飯の買い物の帰り、庭のある家、とくに冬なんかは、イルミネーションを指さし綺麗だねなんて笑ってた。母はどう思っていたかなあ。きっと私は無邪気にいいなあなんて言ったのだろうなあ。2人での買い物の後はお肉屋さんでコロッケを買って、マンションのとなりの空き地に入って、自分の家を見上げながらそれを齧るのが楽しみだったんだ。私の家のリビングの窓際には180cmのクリスマスツリーが飾ってあって、サンタさんに一番近い、なんて地上から母と笑ったね。大きくもない部屋にあんなにギリギリの高さのツリーを飾ってさ。ねえ、母さん、私、庭よりサンタさんより、母さんと食べるコロッケがいいな。

濃藍のそらに満ちてゆく(あ、けふ)さよならプリンセス・セレニテイ

 満ち汐、いま、そして引き汐。月はいつも動いていて、満月でプリンセス・セレニティに会えるのも一瞬な気がしたんだ。彼女は月の女王様だから、地球から遠ざかる引き汐で、帰っていくんだ。またね、また、会える日に。気をつけておかえりなさい、月の国に。みんな自分の国に、さようなら。


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 結局解説にもなっていないけれどまあいいか。つぎのあみもののテーマは気に入ったのがあったのにキリンの柄を写し取る夢を見ていたらどこかに消えてしまった。なんだったっけかな。思い出せなかったらまた考えよう。さいごに、ひざさんいつもありがとうございます。本当に。今回も素敵な編み物でした。これからもよろしくお願いいたします。

2019.06.10
深水きいろ

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