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僕がテレビ番組のADをして思ったこと

みなさんこんにちは。人口4400人の高齢化率45%の課題先進地域と呼ばれている北海道津別町にインターネットテレビ局の道東テレビを作れないか挑戦しているキロック立川です。本当にやりたいことは皆さんの人生の記録を残すことです。記録のキロックです。

さて、僕は2003年〜2006年の終わりまで3年間日本テレビの「1億人の大質問!?笑ってコラえて」のアシスタントディレクターをしていました。契約社員で番組付きのADです。

ちなみに僕はダーツの旅に憧れていました。「うちの街にも来てほしいなぁ。。でも市だから来ないなぁ」と思っていました。ダーツの旅の村人で出たかったです。そんな有名番組で働けるなんて!とウキウキワクワクで始まった僕のAD時代。

2020年にコロナ禍で東京のスタッフが地方に行けなくなったため、地方で活動している笑コラの元スタッフが撮影する企画で晴れて憧れのダーツの旅のディレクターをやることができました。全国放送で全裸を晒す経験ができて良い思い出です。

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さてAD時代。大変だったし辛かったですが、今思うと良い思い出です。死んだ父親が言っていた、「辛い思い出苦しい思いでは時間が経つと良い思い出になる。」をしみじみと感じます。

僕が入った2003年当時はまだ麹町の古いスタッフルームで、タバコもスタッフルームで吸えてた気がします。当時はスマホもなかったし、検索という概念が出始めたころ。リサーチとしては、大宅文庫、役場の紹介、アンケート調査、その次にネット検索だった気がします。

番組制作は(僕は笑コラしか知らないですが)パッケージ化されたコーナーがあって、コーナー担当ディレクターが決まり、そのディレクターに付くADがプロデューサーによって選ばれます。

ざっくり1ヶ月くらいかけて、リサーチ→ロケハン→企画決定→本番ロケ→素材整理スクリプト→オフライン編集→オンライン編集→MA→スタジオ収録→本編編集→オンエアって感じでした。

アシスタントディレクターの中でも序列みたいなものがあって、本編付きADをやれるようになればADとしては一人前。みんなディレクターになりたくて入ってきているので順番みたいなものありました。

当時の笑コラのディレクターさんたちは歴戦の猛者ぞろいだった(多分どこのテレビ局のDもモサ猛者ばかり)し、今も現役でバリバリディレクターやっている人もいます。そんな猛者でも40歳を超えて地方に行ったり、家業を継いだりして、業界から離れる人もいました。

当時はそんなやめていくディレクターの姿に自分をダブらせて、多分僕も40歳を超えたら仕事なくなるだろうなと思っていました。これが僕がテレビ業界をやめた理由です。なので自分で自分の仕事を作りたかった。

一番最初についた企画は忘れましたが、先輩ADから振られた最初の仕事は覚えています。「買い物」です。

買い物って簡単だと思いますよね。僕は静岡県の裾野市という人口5万人くらいの街に住んでいて、田舎に住んでいる人ならわかると思いますが、買い物って1箇所に結構まとまっているんですよね。ホームセンターに行けば大体そろう。

でも東京ってお店が小さくて専門で分かれていて、ホームセンターみたいに1箇所に行けば全部そろう感じじゃ無いんですね。なんなら専門で街も分かれているくらい。それが東京の面白い所でもあると思うのですが、とにかくあれとこれを買って、が、できないわからない。

何がどこに売っているかもわからず彷徨い、めちゃくちゃ時間がかかって先輩に呆れられた気がします。買い物も満足にできないADからスタートしました。

そこから駅長さんの旅スペシャルで博多の駅長さんの取材をして韓国行って、仕事で初めて海外に行けて、新企画で東京23区ヘリコプターの旅をしたり、吹奏楽の旅のセカンドシーズンのADやったり、ダーツの旅、世界ダーツの旅でバヌアツ、ウルグアイ、足立D企画でアマゾン川をペルー側から入って川沿いに下ったりやりました。

東京23区ヘリコプターの旅もしびれました。でも東京を知るのにとても役立ちました。ヘリコプターを飛ばす時間を延長させて(けっこう値段高い)プロデューサーさんに怒られたり、海外ロケ中に現金が足りなくなって送金してもらったり、カメラ盗まれたりしました。

一番痺れた失敗は収録テープを忘れるという。。ロケ始まる時に技術さんに渡すベーカムが無くて、スタッフルームに居た先輩に現場まで届けてもらったり(森屋さんありがとうございます!)いろいろしくじりましたね。

そういえばアマゾン川で水上飛行機で移動している時にUFOを見ました。ちょうどペルーとブラジルとコロンビアの三国国境あたりだったので、きっと何かあると思います。飛行機に乗っていて見下ろす形でタバコ型のUFOでした。その話を演出陣にしたら「なんでカメラ回さないんだ!」って言われて、確かに!と思いつつ「宇宙人にコントロールされてました。」と言ったら収まったのでよかったです。

とまぁ色々失敗もありましたが命に関わるような大失敗をしていない(と思う)ので良いでしょう!(僕がいうことじゃ無いし当時のDさんには本当にごめんなさい)

AD時代から思っていることで、笑コラは素晴らしい番組で制作がカメラを回す元祖みたいな番組だと思うのですが、テレビは結局テレビのための素材なんですよね。当たり前ですが、テレビ番組を作るための素材であって、僕の素材でも無いし、ディレクターの素材でも無いし、テレビ局の素材なんです。

当たり前ですが、時代が変わって当たり前じゃなくなりました。編集や公開まで一人でできるようになったからです。

なので道東テレビでは町の広報番組を作っていますが、素材自体の権利はクリエイターに持たせられるようにしています。クリエイターが自分で撮った素材を自分の作品作りに使えるようにしています。その方が今の時代の一部の人にはメリットがあるからです。

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テレビ番組のようにチーム戦で良い映像を作り発信する仕事も素敵ですが、機材や環境の変化にあった新しいテレビの形を作れないかと思い、こんなにだめADだった僕は活動しています。

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映像って本当に魔法だと思います。映像を通して一親等のエンターテイメントを作って行きたいです。

クラウドファンディングに挑戦しています。ちなみに中継車自体の購入は決まっております!


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