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映像制作業界の面白さ①

「こんな大変な仕事、オススメできない。」
テレビ番組のアシスタントディレクター時代に僕が思っていたことです。でも今は「この時代むしろやってみては?」とおすすめします。テレビ業界は馬鹿なことを本気で考える楽しい業界だからです。

みなさんこんにちは。人口4400人の過疎が進む町、北海道津別町で活動する道東テレビのキロック立川です。映像制作者と地域の良い関係を築くべく、北海道つべつまちづくり株式会社の取締役もやったりしています。

僕が映像制作業界に入ったのは2003年。静岡県裾野市で生まれ育った僕は22歳か23歳くらいの時に、必死こいて正社員の仕事とアルバイトを掛け持ちして100万円貯めて、上京しました。

映像制作関係の仕事がしたいと思っていましたが、いきなりそんな仕事はなく、まずは映像関係ならなんでも良いと思い、当時VE(ビデオエンジニア)の仕事で、ありがたいことにこんな僕でも雇ってくれる会社さんがあり上京しました。最初は技術会社からスタートしました。

そして半年が経った頃、「あれ?俺技術がやりたいんじゃなくて、制作がしたいんだ。」と気づきました。入る前に気づけば良かったですが、当時は制作と技術の違いもわかりませんでした。※テレビ業界は制作会社と技術会社があり、内容が違う。

そして半年経たず転職。上京するきっかけをくれた会社さんには、半年で辞めて迷惑をおかけしました。この時、僕の必殺技の「丸坊主で誠意を見せる1回目」をやった気がします。謝罪の意味を込めて丸坊主は若い時しかできないので、やって良かったなと今では思います。意味はないですが。こうして晴れてテレビの制作になることができました。入った番組は「ダーツの旅」で有名なあの番組でした。

で、テレビ番組のADって忙しいとかきついってイメージだったのですが、その通りだったんです。僕は優秀では無いので、まぁダメADでした。ただ心がけてたのは、優秀じゃないからこそみんながやりたがらないことをやろうと思っていました。

地味ですが機材の管理したり、自分のデジ(VX2000)を買ってみたり、スタジオの前説を率先してやったり、海外ロケも積極的に手を上げました。どれも自分が好きそうな所です。※Dさんにはご迷惑をおかけしました!

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立川26歳くらい?バヌアツ共和国で

テレビ業界の素晴らしいところは、こんな田舎から出てきたての右も左もわからないようなやつでも、平等にチャンスが与えられるところです。企画会議とかADでも企画を出せるってめっちゃ良いです。

そんな感じでみんながやらないようなことをやると目立てるので、そのおかげで3年続いたと思います。ぼくでは3年がギリギリでした。今思うと青春時代だったと思います。吹奏楽の旅とかマジで青春でした。

僕がADになって最初にプロデューサーに言われた忘れられない一言があります。

「君はこれから普通の人が行けないところに行けるし、入れないところにも入ることができる。」

この言葉はその通りで、おかげで僕は今も色々な人の人生の節目に立ち合わせてもらっています。

そんなダメADだった僕が、中継車を買うためにクラウドファンディングに挑戦しています!ぜひ応援してください!


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