主演は助演になり得る
この文章は、一見当たり前に思うかもしれないですが、経験を元に考えると案外新発見の感覚があるかも知れません。
僕は大学で演劇というものに初めて触れ、去年は一役者として大舞台に立たせていただいた。the play that goes wrongというブロードウェイなどで人気を博しているドタバタコメディだ。この劇において、いわゆる「助演」として舞台に立った。
僕は言葉を覚えるより前にある記憶を持っている。それは「主演」であることだった。
親は周りの人たちよりも早く僕を産み、家族は勿論世界の大人たちからチヤホヤされていた。たぶん子供の頃、沢山の人が経験してきたようなことを僕も体験した。さらに親の性格や育て方、環境などに恵まれて(恵まれているかはわからない)わりと集団において中心的な存在として大学生まできた。
大学生になるまでは恥ずかしい話、自分が中心であり、中心であることが優れていることだと思い込んでいた)厨二病をかなり拗らせていたからかな)。主演こそが光であり、熱く、輝かしく、助演はその反対であるとまで感じていた。
つまり、自分がこの人生において「主演」以外の何者でもないと信じて疑わなかったのである。
話を劇作に戻すと、僕らが打った劇において自分は「助演」であった。最後に重要な真相を言ったり、劇中劇の中では主役!であったりするものの、とにかく「助演」であることには変わりがない。
ずっと劇を打つまで、自分はほぼ主演であるだとかあれこれ自分に暗示をかけていた。だから頑張れたという幼さがあったのも事実であるが。
しかし、総合優勝(grand prize)が自分たちだと発表された瞬間、自分が捧げてきた時間が、努力が、全てが報われ、沸騰するような喜びを味わったと同時に人生観が大きく変わったことに気がつく。
「自分は主演であると同時に、助演でもある」
この事実が、光のみに羨望の眼差しをむけていた薄っぺらい心臓に、重く深く鎮するように刻み込まれた。
どういうことかというと、演劇をやる団体の中で役者という立場は紛れもなく主演であったし、総合優勝獲得において、団体として主役であった。その反面、劇の中では助演であったし、直接トロフィーを受け取れるような人ではなく、壇上の隅で喜ぶだけの脇役であった。
つまり主演は助演になる得るのだ。しかし助演は主演でもあり得るのだろうか?
また今度考えてみます。
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