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海外生活の記憶 米州 2010’s 6 サンパウロ・ブラジリア

サンパウロは立派な通りに高い建物がそびえ立ち、その大都会ぶりには大変驚いたものです。日本料理店も多く東洋人街の喜怒哀楽というお店は日本の居酒屋そのままの雰囲気で気楽な感じだったのを覚えています。

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実は出張の写真は工場とか関係者の記念撮影ばかりで掲載するものがないので、参考写真でスミマセン。

サンパウロは16世紀半ばに宣教師がインディオへの布教の為に訪れた村で市になったのは1711年とブラジル発見後だいぶ時間が経っています。サンパウロは内陸部にあり不便でかつプランテーションもなかった為、奥地探検の基地のような感じでそれほどの都会ではありませんでした。それが一気に大きな街となったのは1830年頃から始まったコーヒー栽培がきっかけです。

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それまではリオデジャネイロ近郊で栽培していたコーヒーの収穫が落ちた為、栽培業者が最適地を求めてサンパウロの周辺に移動して来たのです。そしてサントス港が整備されると一気にコーヒーの大産地となり人口も1872年に2〜3万人だったのに1920年には56万人と20倍以上に増えました。1888年に奴隷制は廃止されたので、それ以降はイタリアなどヨーロッパからの移民が多かったようです。もちろん日本から移民した人も多くいました。つまりはコーヒーのおかげでサンパウロはリオデジャネイロを超える国際都市に発展したのです。

日本のブラジル移民は正式には1908年の笠戸丸からで現在ブラジル日系人は200万人以上いるそうです。世界最少人数のリオデジャネイロと違いサンパウロの日本人学校は中南米一の規模を誇っています。

第二次世界大戦後のブラジルは民主化の流れの中で社会主義体制を目指しますが、経済は必ずしもうまく行かず1955年に大統領になったクビシェッキは外資導入による経済発展を目論見、内陸部に新しい首都ブラジリアの建設を決定したのです。しかしこの時の莫大な対外債務がその後ハイパーインフレの原因になったとも言われています。

2010年当時の大統領は史上初めての労働者出身ルーラ大統領でアメリカとは一線を画す独自路線でしたが、極端な社会主義を取らずブラジル、ロシア、チャイナ、インドの4カ国で成長国BRICKsと呼ばれていました。ブラジルではふんだんに採れるサトウキビを原料としたバイオエタノールが燃料の主流になっていて、バイオエタノールの最大の輸出国になっていました。そうそうバイオエタノールの原料としてとうもろこしも使用され始めると食料か燃料かどちらが大事なのかという議論も出て来ていました。今はどうなっているのでしょうね。

最後に日本から出張した時の写真があったのでブラジリアの一部を紹介させてください。

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1908年に豪州でもシドニーとメルボルンの間に全く新しく首都キャンベラの建設が決定され1927年に完成しています。ブラジリアの建設もキャンベラがヒントになったのでしょうか。

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ブラジリアは1960年に完成しました。1100メートルの高地に全く新しい都市がたったの4年で出来たというのです。その早さには驚くばかりです。すべてがデザイナーによって設計されて出来た街だけに結構変わった形の建物が多いです。この半円球はブラジリア国立美術館です。

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写真の左端にメトロポリタン大聖堂が見えます。教会の建物とは思えないほど芸術的です。尖った柱はキリストの茨の冠をイメージしているそうです。

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でもカトリックなので中にあるのは昔ながらのキリスト誕生のシーンです。

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街にはあまり人も歩いていないです。遠くに見えるのはツインタワーの国会議事堂です。

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観光客もブラジリアには余り来ないのではないでしょうか。

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郊外には多分お役人や外交官がメンバーと思われる立派なゴルフ場がありました。

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実はこの時ブラジリアに行ったのはたまたまで、本来の目的は鉄鉱石の鉱山視察だったのですが、ストライキで飛行機が飛ばず結局中継地のブラジリアで足止めされ、時間をつぶさざるを得ずその時街に出て撮った写真なんです。


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