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海外生活の記憶 バンコック90’s 1 到着

1992年5月に起こったタイの暴動事件はクーデターの首謀者でもあったスチンダ首相と民主派のチャムロン・バンコック市長が国王の前にひざまずき、国王の指示を仰ぐというめったに見ることのないシーンで終結しました。その光景が何度もテレビに映し出され日本でも結構有名になった事件です。それまでバンコック市内は街頭のデモ隊に軍部が発砲するという大混乱が毎日のように続いていました。そして最後の最後に国王が仲裁に出て来たという場面でした。私はその時すでにバンコック転勤の辞令が出ていて毎日食い入るようにテレビを見ていました。家族も同じように見ていて、これではとても家族は行かれないねという感じでした。

まだ暴動が終わって数日という頃に私は一人でバンコック・ドンムアン空港に到着しました。現在は場所も全く違うところに新しく出来たスワンナプーム国際空港が日本からのお客を受け入れていてドンムアン空港はほぼ忘れられているかも知れませんが、当時はメチャクチャ混み合っていて空港から市内までひどい時は3時間もかかるという状態でした。とにかく初めてのバンコックです。熱気と特有の匂いは今も忘れられない、というか今ではとても懐かしい感じです。当時のバンコックは日本のバブル時代の名残が残っていてイケイケドンドン、そこら中に新しいマンションが建設され、それが売れ残ったり、建設が中断されたりという時期でした。暴動があったのは旧市街地で、会社のあったビジネス街のシーロム地区や日本人が多く住んでいたスクムビット地区は暴動があったとは思えないほど平穏でした。会社の人に聞くと軍部のクーデターは過去に何度もあったけど、日本人の生活にはほとんど影響がなく、逆に日本のテレビを見た親戚の方が心配して連絡が来て、初めてクーデターのことを知った人もいるほど呑気な雰囲気でした。

バンコックのホテルは安かったので家を見つけるまでの間はずっとホテル暮らしで全く問題はありませんでした。いやいや思い出しました。水が問題でした。それまでにも中国やインドネシア、マレーシア担当で何度もアジアには来ていて水の危ないことはよく分かっていました。インドネシアでは帰りの飛行場で油断して生野菜を食べ、日本についてから3日間下痢が止まらなかったことも経験していました。それでもバンコクで下痢は逃れられませんでした。3日目、3週間、3ヶ月と3回下痢を経験すればもう大丈夫、立派なバンコック駐在員だとも教えてもらいました。食堂に行っても何を生水で洗うか想像しながら、スプーンや皿、コップなど紙で吹いたりして注意をします。

単身中の生活は毎日のように夜は日本食そしてラウンジバー、週末は土日ともにゴルフです。ゴルフ場は入会の為の面接試験もなく、会社保有のゴルフ会員権の名義変更だけですぐにメンバーとなれました。プレイフィーは何度やってもただ、お金を払うのはキャディーへのチップだけなので一日2ラウンドでも3ラウンドでも体力がある限りいくらでも可能です。そうそう会社では一人に一台運転手付きの車もついていて日本では考えられない重役かお大尽のような生活でした。今はどうか知りませんが、当時は逆に自分で運転しては絶対駄目だと言われていました。小さな事故でもあっという間に現地の人が集まって来て大変なことになるという話でした。とにかく日本とはかけ離れたこんな生活が家族が到着する夏まで続きました。

それでは次回からは住宅や買い物事情などテーマ別に書いていきたいと思います。

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