海外生活の記憶 欧州2000’s 20 ヨハネスブルグ
2005年当時のヨハネスブルグは非常に物騒な街で白人が中心部から逃げ出して、街で一番高いといわれる建築中の高層ビルも黒人が占拠して窓から洗濯物が干されていました。1994年に悪名高きアパルトヘイト政策は廃止されたが、総選挙により選ばれたマンデラ大統領の政策が必ずしもうまく行ったということでもありませんでした。江戸時代初期にオランダはインドネシアを支配し、日本との交易をしていましたが、その母体がオランダ東インド会社であり、オランダとの中継地として選ばれたのがケープタウンでした。それが南アフリカの白人統治の始まりでした。18世紀末にはイギリスがその利権を奪い、彼らの元で戦後アパルトヘイト政策が実施されていったのでした。
黒人たちは自由になってもいきなり会社経営が出来る訳でもなく、混沌とした社会が生まれただけでした。日本人駐在員もサントン地区というヨハネスブルグの少し北にある安全な区域に集まって住んでいました。その時点ではもうヨハネスブルグは駄目だという雰囲気でした。サントン地区にはアフリカ料理のおしゃれな店もあって味はともかく雰囲気は良かったです。サントン地区にいる限り、ほとんど不安を感じることはありませんが、街中では車を止めるのも怖い雰囲気がありました。
黒人が国を取り返し黒人優先政策が取られていましたが、経済は低迷していて複雑な思いがありました。貧民街はさらに悲惨で見ていることも辛いくらいでした。
独立の英雄マンデラさんの記念館も見に行きました。
若き日のマンデラさんの写真が飾ってありました。一瞬チェ・ゲバラを思い出しました。
彼の使っていた靴も置いてありました。
有名な喜望峰も見てみたかったのですが、ケープタウンも危ないので観光に行くならダーバンの方がいいとすすめられましたが、結局、近くのサファリパークを見て終わりにしました。この時期には野生動物の狩猟は禁止されていましたが、代わりにハンターの為に育てた動物を放して、それをゲームハンティングと称してターゲットにする業者がいてなんとも言えない気持ちになりました。
この頃、サッカーのワールドカップ2010の開催が決まって南アフリカの治安も当時に比べるとだいぶ良くなったそうです。
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