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海外生活の記憶 欧州2000’s 38 マラガ・ロンダの白い村

グラナダからマラガに行く途中にフリヒリアナという白い村がありました。アンダルシアのイメージにぴったりの白い家が並んでいて時代がずっと昔に戻ったような感覚です。

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高台にあって、皆さんはどんな暮らしをしているのだろうとちょっと気になります。観光客相手のレストランや土産物屋さんはそれで生計をたてているのはわかりますが、他の家は農業でも営んでいるのでしょうか。それともみんな別荘なのでしょうか。下の写真をよく見てください。左のお店は看板が日本語です。さぞかし日本人観光客が多いのでしょうね。

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マラガはグラナダと同じ様にセビリアが陥落した後も更に200年近くイスラム勢が残った地域でやはりマドリードやバルセロナとは雰囲気が全然違います。マラガからマルベーリャまでの海岸線はコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と呼ばれ金持ちの別荘が沢山あります。多分ポンド高でイギリス人もこぞって買ったのだと思います。(実はバブル時代には日本でもこのコスタ・デル・ソルの別荘は結構売れたのです。)バスの窓から眺めていると白亜の宮殿のような豪邸があり、ガイドに聞いて見るとアラブの王室の所有ということでした。ちなみに家並みとは全然関係ありませんが、フラメンコの様式にあるマラゲーニャはマラガで生み出されたそうです。

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バスはコスタ・デル・ソルの海岸線から内陸に入りますが、しばらくすると突然街が現れます。参考写真ではこんな感じです。ここがロンダという街です。

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街と街の間を古い石の橋が結んでいます。何故かこんな古い感じなのにヌエボ橋つまり新しい橋と呼ばれています。ロンダは新石器時代から人が住んでいたようで近くにはそれを示すピレタ壁画洞窟があります。紀元前6世紀にはケルト人が住んでいてここをアルンダと呼んだことからロンダという地名になったらしいです。

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ロンダの基盤が出来たのは紀元前3世紀の第二次ポエニ戦争のあとで、ハンニバルがスペイン全体を占拠していましたが、ローマ帝国のスキピオ将軍がここに橋を懸けて最後はカルタゴを追い払ったという伝説の地です。平定後はここに城が築かれ人が集まって都市になったのです。しかし他のアンダルシア地方と同様ローマ帝国の崩壊後、8世紀にはイスラム勢が支配していてコルドバ太守国が分解して諸国が出来たときは、ロンダ王国という国にまでなったそうです。下の写真を見てください。見事な崖です。この上に街があるのです。

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タホ渓谷と言うそうです。

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15世紀にはグラナダやマラガと同様にスペインがイスラム勢を追放し、新しい街を作ります。そして18世紀には闘牛場と共にこのヌエボ橋が出来たのです。やはり新しい橋だったのです。橋の先には素敵な白い村が広がっています。

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ここには普通の生活があるようです。

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お土産屋さんもやっぱり白い家です。

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街の中心には立派な建物もあります。ここはソコロ広場というところでやっぱりエキゾチックですね。

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店にはところ狭しとイベリコ豚が売られていますが、このイベリコハムの塊は家には必ずあるそうで、この塊を吊るす器具も揃っていて食べる分だけ薄く削ぐみたいです。

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マルガからロンダまでの白い村、白い街はアンダルシアそのもので今も目に焼き付いています。


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