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ショート・ショート 夏の思い出

秋の山色をたがえし分水嶺


ひろしは高校に入ってしばらくしたある日、自分の教室に戻る途中、廊下で少し憂いを秘めた綺麗な女子生徒とすれ違いました。それがひろしにとって初めて恋に落ちた日だったのかも知れません。胸の高鳴りは今までに感じたことのないものでした。確かに中学の時、学級副委員の山科が気になってはいましたが、こんな気持になったことはありませんでした。なんクラスだろう?名前はなんていうんだろう?教室に戻ったひろしはそんなことばかりを考えていました。

その後、友達などにさり気なく聞き取り調査をすると、名前は後呂京子、部活は生物班でクラスはなんと隣のクラスであることがわかりました。ひろしは何とか彼女と接点を持ちたいと思って、生物班に入ることにしました。植物など全く興味がなかったひろしですが、ほとんどが女生徒がメンバーの生物班に入るとなるとそれなりの理由が必要で、仕方なく植物や昆虫の勉強を始めることにしました。生物班に入ると必要だと言われて緑色の金属製の植物採取ケースを買いました。ひろしは植物を撮るのに必要だと親を騙してオリンパスペンと言うカメラまで買ってもらいました。ひろしは何故あんな金属のケースが必要だったのか今でもよくわかっていませんが、オリンパスペンはその後も大活躍しました。

生物班に入ったことで、なんとか京子と知り合いになることは出来ましたが、その後どうしていいのかひろしには全く見当が付きませんでした。でも週末に昆虫採集や植物採集の為、郊外に行くだけでも充分楽しい時間を過ごすことが出来ました。そうしているうちに夏休みが近づきましたが、その間、班として特別な活動がないので、彼女と会えなくなります。そこでひろしは京子に夏休みに一緒に図書館に行かないかと誘って見ることにしました。この作戦は成功し、毎週一回、曜日を決めて図書館で勉強することになりました。これが初デートと言えるのかどうかは疑問ですが、それでもひろしにとっては間違いなく胸躍るデートでした。

夏休みも半ばになった頃、彼女は家族で白馬の別荘に行くから次回は図書館に行けないと言うのです。その間、彼女のことばかり考えていたひろしはある晩夢を見ます。彼女が足が痛いと泣いている夢でした。朝起きてもひろしは気になって仕方がありません。でも別荘の連絡先は聞いていないので電話をかけることは出来ません。そうしているうちに東京に戻って来た京子と再び図書館で会うことが出来たひろしは彼女と会うとすぐに、「白馬はどうだった。俺、不思議な夢を見たんだ。京子が足が痛いと泣いている夢だよ」と言うと「う〜ん」と考えていた彼女は「そう言えば白馬で釘を踏んで足の裏が腫れたことがあったな〜」と言うのです。「それって何日のこと?」ひろしは畳み掛けるように聞きました。「う〜ん。20日くらいかな」「え〜!俺が夢を見たのはその晩だよ〜」ひろしは図書館の中にいることも忘れ、思わず大きな声を出していました。

それ以来、ひろしはテレバシーというものを信じることにしました。心の声だって遠くまで聞こえるんだと完全に信じていました。死者が夢の中で囁くことだって、金縛りに合うことだって絶対に本当のことだと思っていました。それも人生の大半をずっとそう信じていたのです。しかし、その夢から40年以上たった高校卒業40周年の学年OB会でのことでした。親切な友達が「お前、京子のこと好きだったよな」と言ってわざわざ京子を引っ張って来てくれました。高校卒業以来それぞれ別の道を歩み、お互い結婚して子供たちも独立する年代になっていました。彼女は少し小太りにはなっていましたが、ひろしにとっては何も変わらないと思えるほど素敵な大人の女性でした。しばらく話していて白馬の釘踏み事件のことを話題にすると「えっなんのこと?」と京子は全く記憶がない様子でした。私が夢の話を詳しく説明すると「う〜ん。そんなことあったかな〜?多分あなたに話を合わせただけじゃないの!」

「が〜〜ん!」ひろしが40年間信じていたテレパシーの存在が吹き飛んだ瞬間でした。そして改めて自分の初恋はただの片思いだったことを思い知らされた瞬間でもありました。

幽霊の正体見たり枯れ尾花

片思いは幽霊と違い、特に怖いものではありません。でも思い込むと枯れ尾花でも幽霊だと思いこんでしまう人間の心理はやはり怖いものがあります。思い込みの強いひろしは、相手も自分を好きに違いないと思って、いつストーカーになってもおかしくはないのです。しかし今のところ彼がストーカー事件を起こしたと言う話は聞こえては来ません。

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