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かつてこの景色があった

まだ年端もいかない頃に一世の宗教に盲信する親が嫌いで宗教が嫌いで逃げた親が信仰二世になった。一世と揺れて止まってを繰り返して宗教を盲信した二世の親に虐待を受けた自分は三世で信仰なし。一度も信仰したことがないから三世でもないけど受けた被害と生きづらさは被る部分が多い。
事件以降は黙って見つめていたが事件後の騒ぎでちらほら見かける二世を見ていて気づいた。せっかく自由になって解き放たれたのに別の宗教に入る宗教ジプシー、親や教団への不平不満を口にしながら愛されたいと言う本心、普通を求めて普通にこだわり一部は何故か似た正しさをぶら下げて活動家になっていく。別に否定はしない。これは親と似た揺れなんだなと感じただけ。

たぶんこれから自分の所感を書くと「たまたま君のところがそうだっただけ」なんて言葉が来るかもしれながそれはよく分かっている。教義を刷り込むときは家庭から教団から国から世界とスケールが大きくなっていくが都合が悪くなれば国から教団それで結局は家庭や親とスケールがどんどん小さくなっていくのはこれまでもそう。もしそうなら同じ言葉を返すだろう、たまたま君のところがそうだっだけだよなんて言葉をな。

逃げたけど家なし、職なし、希望なし。でも当時はそれでも親族のところにいるよりは自由だった。誰にも助けてと言えないから助けてもらえることもなく時間だけが過ぎたが今思えば助けてと口にして助けてもらえないことが怖かっただけなのかもしれない。法や社会がずさんな設計だから助けられることはなかったが、そのずさんな設計の抜け穴で何とか生き延びて今ここにいる。ごく少数の当事者と出会うこともできてその関係性の相手だけに本心を話したけど、みんな気づいていく。ずっと同じ話を繰り返しているだけなんだということに、自分たちが動けずにいることに、それを何かの誰かのせいにして自分と向き合えない、そんなことに。


残すかどうかは分からないがだらだら書いていく。

透明な当事者の場所のために使います