2人称のトラウマ―新造真人個展 wave of light評

―僕はアートを選んだけど、君はどうするんだい

 小平駅の改札口を抜けると文明堂が目に付いた。石材店が数軒あって、花屋も目に留まった。お寺で展示を開催することもあってか神妙な気持ちがどこからか沸いてきて会場まで足を運んだ。照恩寺に到着すると一般住宅に入母屋の本堂が併設された造りに少し驚く。伺った夕方頃には洗練されたお寺のロゴの看板に灯りがつけられていて、モダンな暖簾が玄関口に垂れ下がり抱えていた緊張感をほぐしてくれた。
 展示会場に入ると客間一体に緊張感が張り詰めていた。作品の一つに安産と書かれた書が部屋の中に敷き詰められていて不気味な感じがした。それと左手の襖を挟んだ向かいの部屋と互い合わせに姿見が床に二つ置かれていた。視線を鏡面に浮かべられた林檎に落とすと〈あちら〉側の世界を仄めかしてくれた。向かいの部屋を襖越しに覗くと二つの部屋の戸の隙間に膜が張っているようで自分が存在する世界からの出口を見た。そして見通してる空間は思っている世界と異なっていて不安になったのだ。
 あちら側の世界というのはポジティブにもネガティブにも突き詰められたもので極楽浄土や宇宙のような世界をイメージした。しかしそんな形式的なあちらの世界はないことを突きつけられた。あちらの部屋の床の間に掛けられた掛け軸と経机に置かれた富士山の彫刻は襖を跨いだこちらとあちらを対比しているだけではない。偶然にも向こうの部屋は私達の世界と同位相になっているが故に連続しているが異なる力があることを教えてくれる。世界の一致の気味悪さはあちらとこちらの形式の関係やその反転について思いを巡らせる眩暈を生んだ。[*01]
 それだけにあちらの部屋の掛け軸の作品を見て戸惑った。多重露光で撮影された光が絹糸のように海面に重なり幾何学模様を縁取る掛け軸は床の間に均整を保って展示されていた。前室の展示で受け取った毛羽だった不気味さから静謐なもの心象が変化しようとする力に引っ張られてトラウマが漏れてそうになりぞわぞわした。
 照恩寺の帰り道の小平はどこにでもある個人商店のひしめく町になっていて展示に向かうときに目にした幽霊の存在は気にならなくなっていた。仕事を終えて新宿から帰ってくる人たちと逆行しながら帰り道を散歩した。僕はどれくらい自分を晒し切れているのかを自問しながら西武線に乗った。


[*01] 僕は正直なところ新造真人の個展ーwave of light展を誤読して受け止めてしまっている。鑑賞者はそれぞれ固有の視点で作品を解釈することから展示者の提示する解釈と個人の鑑賞者の解釈が織り交ざることは当然であるが、私が彼を知った17の頃から彼に投影している作家/補助者、固有性/継承性といった二項の対立を脱構築的に受け取ったことから他の鑑賞者に比べてトラウマに晒されてやすかったことは否めない。

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