見出し画像

現在なう日記 030 知のつづき

#029 で書いた夫の超限定的に発展した語彙力テスト力とでもいうべき力の話だけでは無い。

最近「なんか、この人凄いけどすごくないとこがある」みたいな気持ちになった時に、その現象を分解していくとかなりの確率でそこには条件付きの環境下で何かすごい能力の存在を感じる。

で、この特定環境化の力、局所的な知力があることを前提にしていくと、#027で書いたようないわゆる頭のいい人へのコンプレックスが無くなるのだ。
コンプレックスと自分が感じている(た)のは、「あいつ、世間から頭がいいやつって認定されてるけどでも本当は私より頭の悪いとこだってあるよね!でもなんで私の方が良い部分を世間は認めてくれないのだろう」
みたいな思考回路だったのだと思う。

この発想の原点は、無意識の「頭がいい人は、頭を使う行為全体、そうで無くても大きく数的能力とか言語的能力とかある程度の範囲については必ず全部優れているはずだ」という決めつけが隠れている。(もちろんそう言うすごい人はたくさんいる)

決めつけに気づかないと、頭がいい人の頭が良くない行為が許せない。
頭の悪さも同様で、頭が悪いことを認めてしまうと全体が「頭が悪い」と認めることになってしまうので許せなくなる。

これは他人に向けてだけでは無く、自分自身に対する自分が下す評価にも同じことが言える。そうすると、自分のとこを頭がいいと思ってたとしても辛いし頭が悪いと思っていたとしても辛い。

本日はここまで。(果たして明日があるのか)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?