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「私の脳は考えることをやめて優しくなったのか。つまらなくなったのか。」

 昔から、いろんな物事に対して「批判」「批評」するのが本当に苦手。「良い」「悪い」とハッキリ判断することが苦手。読んだ本、見た映画、聞いた曲、人の話。それらに対して感想を持って語ることはできるけど、そうする私の頭にはいいとこ探しして褒めるという、小学生の読書感想文的な前提がある。
 「ダメだ」とか「面白くない」「悪い」という評価ができない。なので反対にはっきりと「これは良い!」と絶賛することも心許ない。ものを評価するのは勇気がいるものだと思う。自分や自分の意見に自信がなければそれを自ら発するのって結構怖いことじゃないだろうか。話し相手に調子を併せて「あれはないよね〜」「確かにあの人そういうとこあるよね〜」と同調的に批判して、それに引っ張られて「確かにそうかも」と自分に落とし込むことはあるものの、それが100%純粋な『私の個人の意見』となると強いて言ってそれにあたるのは「私にはわからなかったナ」という感想に留まる。
 なんかこれを語ると自分を「良い人」や「優しい人」に見せようとしてるように思われそうな気もするけれど、そんなつもりは一切ない。
 だって誰にも語らない私の心の中にすら、オリジナルの批評は本当に浮かんでこないことがほとんどなのだ。

 例えば一本映画を観た後で、私がまずすることは、ネット検索で人のネタバレ批評を読むことである。
 そこで自分の解釈が、他人の解釈と一致しているかもしくは全然違う見方があるのかと言うことを、確認しないと映画を楽しめた気がしないのだ。
 「あー面白かった」と呟いて見終わった映画が、映画批評家にボロクソに叩かれていたりする。ではそれがいやなのかと言われるとそうでもない。
 「ヘェ〜これそんな意味があるわけ!」「なるほどねそういう受け止め方すんの」と感心して、それが楽しいわけなのだ。私としては、映画そのものを楽しんで、次にその批評を読んで楽しんで、2度楽しめるわけでいい。いいけれどやっぱり少々どうかと言う気もする。
 自分の感性を信用してないし、それより感性のもっと手前の、それをまずを注意深く見て、考えて感じる、ということができてないんじゃないかい、私の脳みそ。大丈夫か、と思うのだ。
 子供の頃からテレビに齧り付いてアニメやお笑いばかり見ていた弊害か。本を読むのをやめ、小さな画面で自分の手の届くほんのわずかな範囲の情報で手軽に心を埋めてきたその代償か。
 ものや人に文句ばかり言う人を、「善し」と思うばかりではないにしろ尊敬するし感心する。「自分というものをはっきり持っていてすごいなあ」と思う。そう考えると私は自分に自信がないのか?という疑問が湧くが、そう思うことにもピンとこない。

 一方で、すごく自分のこの思慮の癖に対して肯定的に言うならよ、そもそも私のものの価値観というのがものすごく曖昧で、「良し悪し」を明確に持たないスタンスなのだ。ついさっき読み始めた『夫婦のルール(三浦朱門・曽野綾子)』という本で、曽野さんが夫婦の価値観について書いていたことに大いに共感しながら読んだ。《いいか悪いか、ではなくて、自分とどう違うのか。必要なことは、違いを認識することです、この人と私の考え方は違う。それを感じ取って、受け止めればいい。》
 なるほど、私達夫婦に大きな意見の相違や揉め事や喧嘩が少なく(ないわけではない)、比較的関係が安定しているのも案外このスタンスのおかげかもしれないと思った。読みながらそうかそうだったのかと自分のことを考えていたけど、夫婦関係だけじゃない、読んだ本も、観た映画も、とにかく対面したあらゆる事態に対して私はこの物差しで生きているのかもしれない。そしてこれは、ある意味心を鈍感にすることで、人やものや自分をむやみに傷つけ間違え突き放すということがないよう、不条理不平等なこの世界でいつしか私が楽観的に生きていくために身に付けてきたいわば処世術なのかもしれない。

 例えばだけど、「飲んで暴れてたばこも浮気もパチンコもするダメ親父」は「悪」かというとそうではなかったわけだ、私にとって。「ダメ親父」だけど反面「バカだけど大好きな父」だった。母は母で不器用な「仕方のない人」だったけど、それでもできる力の全てを持ってなんとか私達を養い食べさせて、つらい時も愛を持って楽観的に育ててくれる「素晴らしい母」だった。「貧乏」で「どうしようもない」つらい生活の中に、反面多くの「幸福」が私の元にはあったのだ。
 そんな幼少期の体験が私に世の中の矛盾や希望を教えてくれたし、簡単に言うとどんなものにも良いとこ悪いとこあり、それを「良い」「悪い」で判断するのは私が生きる上でいろんなことがあまりにも都合が悪かったと言うことだと思うのだ。

 書きながら「こんな私の書く文章が面白いだろうか」と不安になる。誰だって、その意思を強い言葉ではっきり示せる誰かの話が聞きたいんだから。そんな誰かにとって、私はただの八方美人に映るだろう。
 いますごく、そんな誰かと話がしたい。私と誰かの違いを知りたいし、それを受け入れる心を手に入れたい。あわよくば誰かに、そんな私を受け止めてほしい。
 『夫婦のルール』は古本屋でたまたま手に取りなんとなく買って帰ったのだったが、読んでみると私にとって良い本だったように思う。正直三浦朱門さんのことも曽野綾子さんのことも知らなかったが、こんな感想文が書けただけ私にとって価値があったと言ってもいいだろう。

 時代感に多少ズレがあるので教育方針や家庭観について「わからない」部分は多少あるものの、90歳と85歳、六十ウン年夫婦として関係してきた男女が語る夫婦観、ひいては人生観は興味深く、面白かった。まだ3分の1程度しか読めてないが続きを読むのも楽しみだ。価値観が人の数だけあるのと同じく夫婦観というのもそれぞれに大きな違いがあるわけで、私は全てを参考にしようという視点でなく、「グッときたゾ」という一文やフレーズを心に留めつつ読み進めて行きたい。と、思いました。

「私の脳は考えることをやめて優しくなったのか。つまらなくなったのか。」
 そうかもしれないけど、まあそれはそれでいいじゃないか。

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