漫画家の自殺と原作レイプ問題
近いところに着弾したので「焦げ臭いな」と思っていたら、最悪の結果になってしまったので非常に残念に思っています。
一般論として、SNSは自由に書ける反面、関係者が思ったことをそのまま書いてしまうと本人が思った以上に、または間違ったことでも大きく広まってしまうことはあります。そして、仕事として生きている以上、思ったように、感じたように、書いていいことと、そうでないことがあるのです。たとえ、それが自分の子どものようにかわいがっている、思い入れのある原作に関することであったとしても、守秘義務があり、業界の慣習や主張できる権利の幅というものが、厳然とあるのです。クリエイターは、その葛藤を持ちながら、自分の意見が必ずしも100%は通るわけではない状況の中で同最善を尽くすかで職業人として生きることも多いので、なかなかむつかしいよなあと思うわけです。
芦原妃名子さんに関しては、直前まで自身の漫画『セクシー田中さん』のドラマ化を巡って、権利窓口になっていた小学館を挟んで日本テレビ側と調整をする中で、脚本家の相沢友子さんも芦原さんの「告発」と前後してInstagramなどで状況の説明をしていました。いちいち中身は引用しませんが、業界の扱いの問題としてはあるあるな一方、『ビブリア古書堂の事件手帖』『ミステリと言う勿れ』などにおいてはある種の原作クラッシャー的な作風が指摘される脚本家の一人です。元ホリプロ、共同テレビの小椋久雄さんの流れの御仁ですね。
で、割と強烈なInstagramを書いていて、これが芦原さんの「告発」に対する反論になっていたかどで、悲惨な決断の遠因になってしまったのではないかと言われておるわけですけれども、実際にはもうちょっと込み入った事情があるのではないかと感じられます。
というのも、日本テレビ側に対して小学館サイドも担当編集だけでなく局長も入って著者の主張する原作の作風を守るために「この作品の構成はないだろう」という注文をかなり付けていたようで、これ自体、ドラマ制作の方面からするとある種異例なことです。その点で、小学館ご担当者と日本テレビの間では一定の意志疎通はあった、と認識しています。
実際、テレビ局からすると話題となっている原作については原作権を取り付けた後はテレビなど映像作品にしやすいように脚本家がプロデューサーチームなどと一緒に視聴者のフックになる表現を創出し上乗せすることが、いわば当然のプロセスとなっているうえ、力関係的に原作権を持つ作家やその窓口である出版社に対してはニュアンス的に「原作を使ってやっている」という立場になることも多々あります。世にあるドラマなど映像作品での原作レイプ事案というのは、原作に対するリスペクトが薄いというよりも、テレビでウケる制作内容に改変することをある程度込みで原作利用の許諾を得ることもまた多いのです。今回も、著者の芦原さんの認識とは別に、この手の話ではまあこういうことであるという目分量が関係各位の間で異なっていたというのが悲劇のトリガーだったのではないかと感じるのです。
また、日本テレビ側と小学館側とで、芦原さんの決断にまつわる事情について見解や認識している事実関係が異なっているようで、また、業界的には原作の翻案・改造は純粋にあるあるであって、発注を受けた脚本家の相沢友子さんも原作者からのクレームで脚本を10話中終わりの2話分降ろされたことについては率直に不快感を示しています。
個人的には「漫画家は繊細だからそういうことでストレスを感じ、重い決断をしてしまうのだ」という話で収めていい話とはどうしても思えず、一方で、界隈が割と率直に「気持ちは分かるけど、そんなことで死んじゃったりするのかね」というのは「日テレが(原作レイプを常習的にやってきた)相沢友子を脚本で使うとなった段階で小学館は分かっていたはずだから、そこでさっさと原作を引っ込めるべきだった」という声が複数聞かれるのも一般的にフォーメーションやキャスト案が出た段階で原作者側(出版社担当)が原作利用に所定の条件をつけることが多々あるからに他なりません。
特に原作レイプで頻出する「原作にない設定や展開、キャラクターなどを挿入することで作品に新たな解釈を加える」のは、小説や漫画が映像化される場合に尺の問題や表現の惹きのところで原作そのものが抱える物語展開のフックの少なさに課題がある場合もあるからです。しかし、原作が意図を持って恋愛事情を省いて男だけの描写で済ませている作品に恋愛沙汰をぶっ込むような形で原作レイプが行われ原作ファンが怒っても、その恋愛沙汰がないと一般の視聴者が「なんやこのドラマ、味気ないな」と言われればテコ入れでもレイプでも何でもやって視聴率そのものや視聴質を引き揚げようとする、なんてことはよくあるのです。
今回の『セクシー田中さん』の場合は特に、好きな人はすごく好きなタイプの作品ですから、一般的なテレビドラマを娯楽として消費する視聴者からはあまり一般的なテーマのタイトルと見なされてはいなかったようです。原作の通り映像作品にして放流していたら数字が取れていたかは分かりませんが。他方、ドラマ作中のベリーダンスについての描写は特に語られていますが、これは脚本家だけでなくドラマ演出の側がちゃんとベリーダンスについて調査・研究をしていなかったために割と適当に流して作っちゃったんじゃないかと指摘されてもおかしくないぐらい雑な雰囲気であったため、そこに作品テーマ上のこだわりを持つ芦原さんからすれば納得できない映像化だったのだとも感じられます。
このあたりを勘案すると、制作において芦原さんがそこまで思いつめて重大な判断をしてしまうことの是非は第三者としては計り知れないものはあるのせよ、単純に業界あるあるで済ませるにしては重大で、しかもその原因が原作中のこだわりの実現をネグってしまったのかなあとも思います。
クリエイター方面で言うならば「思い通りの二次利用作品ができなければ作者がいちいち凹んで面倒な事態にするんですか」って話にはなりやすい界隈です。漫画家や出版社方面の人たちからすれば、危機感を持って捉えられるタイプの悲しい事件であったと思いますが、映像側からすれば、テレビ局に限らず「改変が嫌なら原作権を売り込みに来るな」って話になるんじゃないかと思います。もちろん、愛読者や視聴者は置き去りですが、しょうもない仕込みや原作レイプでも当たる作品は当たるわけで、それで外れたら「残念でしたね。はい、次」となりやすい界隈です。
それもあって、どうしても原作者の意向や作風を大事にしたいコンテンツなのだとするならば、製作委員会方式にして作者や出版社もしっかり入ってその作品の伝えたいこと、テーマ性、表現の内容を実現するのだと制作陣と全部合意を取って進めないとこういうことは起きるよなあ… ということは知られておくべきだろうと思います。テーマ性の強い作品を作る原作者や裾野の狭い原作愛好者の意向を無視してでも、一般の視聴者の支持を得られる作品作りをする方が多くの人に届くと考えるテレビ局など制作側の力関係が強ければどうしても起きてしまうことなので。
画像はAIが考えた『原作者が大事に思っているほど世間では関心を持たれていないコンテンツ大量消費時代で、作家性を大事に生きてきた人が自分の作品をベルトコンベアーに載せられてこんなはずじゃなかったとドナドナを悲しむ一部始終』です。