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静 霧一 『虚泡』
天井を見上げると、世界地図のようなカビが黒く張り付いている。
浴槽から毎日のように天井を見ていたのに、私はそれに気づくことが出来なかった。
きっと、湯気で目が霞んでいたのだろう。
ふと、視界にひらひらと小さい虫のようなものが浮かんでいるのが見えた。
私は不思議に思い、それに手を伸ばす。
しっかりと掴んだはずのその虫は、するりと私の手のひらを抜け出し、また視界の中を泳いだ。
目を凝らしてよくよく見てみると、それは虫なんかではなく、小さい魚であった。
私は首を傾げる。
この小さくかび臭い浴槽に魚がなぜ泳いでいるのだ。
ふと視線を下げる。
浴槽にたまった水の中に、色のない魚が数匹泳いでいた。
ぱちゃん。
魚が一匹、水面を跳ねる。
その雫が、私の口の中へと触れた。
塩辛い。あぁ、これは海の味だ。
私は誘われるがままに、浴槽にたまる小さな海の中へと潜っていった。
◆
温度も音もない世界。
浴槽の下に広がる海は、果てもない、底知れぬ無限が佇んでいる。
さきほど浴槽の外で見た魚が、群れを成して私を取り囲む。
どうも、私が口から出す"泡"へと集まっているようであった。
大きな"泡"、小さな"泡"。
色形様々な"泡"がぶくぶくと海の中を漂い、その"泡"を魚が食べていく。
泡を食べた色のない魚の鱗が、だんだんと鮮やかに躍動していく。
苦しい。
だんだんと肺の中の泡がなくなっていき、私は藻掻く。
藻掻けば藻掻くほどに口から泡が噴出し、それに腹をすかせた魚が群がる。
とうとうそれは口元まで迫り、口の中に残った最後の空気を食べつくした。
意識が途切れる直前、遠くのほうに巨鯨が見えた気がした。
◆
砂の匂いがする。
耳の側では、さざ波の音が聞こえる。
私の意識が少しづつ浮上し、目の裏にうっすらと光を感じた。
濡れた服で体が重い。
生まれたての小鹿のように、ゆっくりと体を持ち上げる。
砂のこびりついた顔を、服の袖で拭う。
目を見開き周りを見渡すと、そこには白い浜辺が広がっていた。
水平線の遠くでは、太陽が半分顔を出している。
見覚えのある景色であった。
ふと、海から視線を外し、浜辺の遠くを見る。
そこには、白いドレスを着た女性が立っていた。
「あ、あぁ、あぁ」
私は情けない声を上げながら、夢中で走る。
たどたどしい足取りで、何度も躓いた。
傍から見ればなんと格好悪い男だろうか。
それでも私は夢中で走った。
息を上げながらも、私は彼女の目の前まで辿り着く。
「―――つぐみ」
私は彼女の名前を呼んだ。
彼女はただただ、優しく微笑んだ。
あの頃のような優しい眼差しを向ける彼女に手を伸ばす。
「―――魚?」
先ほど海の中で泳いでいたはずの魚が、手の側をゆったりと泳いでいる。
魚の一匹が、彼女のもとへと泳いでいく。
そしてぱくりと彼女の白い腕に噛みついた。
魚の噛みついた部分から、彼女の体がだんだんと小さな"泡"へ変わっていく。
「やめろ、やめてくれ!」
いくら叫んでも、彼女は泡となっていく。
その泡を、どこからともなく現れた魚が無常にも食べつくしていく。
私はただただ、膝を落とし、茫然と悲しみに平伏した。
私の嘆きなど届かない。
彼女は泡沫となり、消えた。
私は乾いた瞳で水平線を見つめた。
太陽の真上、まるで海のような空を、虚鯨が大きく羽ばたいていた。
◆
紫の唇、小さく白い泡。
かび臭さの残る小さな海の匣で、男が独り、事切れていた。
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