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食生細胞(胎動)

人は愛を誓いたがる。
それは、互いの額に銃口を向けているのと同じだ。

愛ゆえに自由。愛ゆえに束縛。
なぜこんなにも愛というのは歪み切っているのだろうか。

私の愛はいつだって飢餓だった。
満たそうとするも、嘘をつかれ、裏切られ、逃げられて。
そんな私が行き着く先など、いつも決まって泥沼というものであった。
だが、今晩だけは、私は泥沼から這いだしたのだ。

私はおかげでひどく疲れ、青く冷えた脱衣所で蹲っていた。
やっとこそさ終えた作業は、私にとっては重労働であった。
彼との幸せな白い思い出たちが犠牲にならなければ、私はこれを成し遂げられなかっただろう。

私にとって愛を食べる行為は、覚醒そのものだ。

風呂場の換気扇がとまり、無音が訪れる。
私は力なく立ち上がると、脱衣所から風呂場の中へと入り、浴槽の中を眺めた。
すでに顔の血色が青くなり、紫色の唇から泡を吹き零した彼だったものがそこには置かれていた。

「あぁ、私はちゃんとやったんだ」
心なしか、私の口が綻び、嬉しさがこみあげてきた。

私が彼と出会ったのは社会人1年目の頃であった。
当時一個上の先輩であった彼は、私の教育係として任命されており、2人でいることも多かったことから、次第に距離が近づいた。
もはや愛が結ばれるのは時間の問題でもあり、半年後、私は彼と付き合うこととなった。
浮かれていた私の視界には彼しか映っていなかった。
私はこの頃から愛に縛られていたのかもしれない。

彼はどちらかといえば自由奔放なほうであった。
平日には飲み、休日にはアウトドア。
いくつものコミュニティに所属し、彼の周りには多くの繋がりがあった。
人見知りの私にとっては、その繋がりを羨ましくも思い、疎ましくも思っていた。

そうしているうちに、私は休日の夜になると彼の家に行くようになった。
本当は同棲をしたかったのだが、それはまだ早いと彼が嫌がったため、休日の夜だけはご飯を作りに行くのであった。

そんなある休日のこと。
いつもは19時ぐらいにいくのだが、たまには手の込んだ料理を作りたいと、17時頃に彼の家に行った。
いつもなら鍵はしまっているのだが、今日はなぜだか空いていて、私はゆっくりと家の玄関を開けた。

玄関には、いつもの彼の靴と、見慣れぬ女性のローヒールが置かれていた。
私はその瞬間全てを悟ったが、それと同時に、なぜ私がこんな目にという憎しみが湧き上がってきた。
本当であれば、家の中に乗り込んでやりたがったが、そんなことをしても何も解決しないし、もしかしたらその場で彼が他の女に乗り移ってしまうかもしれないと思い、私はそっと玄関の扉を閉めた。

その後何事もなかったかのように、19時に彼の家に行くと、すでに女性の靴はなく、何食わぬ顔で彼はテレビを見ていた。
彼はいったい今何を考えているのだろうか。
その笑顔の顔の皮をべりべりと千切って、その裏を見てみたい。
私の心の中の愛情とやらがだんだんと黒く染まっていく。

嫉妬に憎悪、狂気に混乱。
そんなものは心が疲れるだけで、本当は抱え込みたくもない。
今の私はとにかく、それを消すことだけを考えていた。
口の中には、生焼けの肉と苦い血の味がしている。

時刻は夜の11時を指した。
酔いが回っていた彼は、ふらふらとした足取りで風呂場へと向かった。
いつもなら肌身離さず携帯を持ち歩いている彼だが、今夜に限ってそれを忘れて、テーブルの上に置きっぱなしになっていた。

私は携帯を手に取り、メールのボタンを押す。
それを表示すると、そこには数々の人たちとの生々しいメッセージばかりが並んでいた。
1人だけではない。未開封のメールだけでも30件溜まっている。

ブーブー。
新着メールが届いた知らせが鳴った。

「今日は楽しかったよ」
それは紛れもない、今日居た青いヒールの女からであった。

そこから私の記憶はちぐはぐだ。
白昼夢の感覚に近いといえばよいのだろうか。

咄嗟に、近くにあった白い延長コードを引っこ抜いて、そのまま風呂場へと向かった。
彼は酔いのせいか、浴槽の淵にもたれかかって、情けない顔をしていびきをかいている。
私は彼の首にそっと延長コードを巻き付け、そしてそのままお湯のたまった浴槽の中へと無理やり押し込んだ。

彼は突然のことに藻掻き苦しみ、浴槽の中から必死に出ようとする。
私はそれを防ごうと、思い切り彼の頭だの肩だのを抑え込んでお湯の中へと沈めた。
こういう時の人間の身体というのは不思議なもので、異様な力を発揮する。
普段であれば、力で勝つことなんてできない私が彼を制圧する。

気づけば彼はピクリとも動かなくなり、顔を水面につけたまま力無く浮上してきた。
その瞬間、私にはどっと疲れがのしかかり、ふらふらとしながら脱衣所に尻もちをつき、洗面所の小さな扉にもたれかかった。

少しだけ疲れたな。
私は目をつぶり、眠りについた。

あれからどれぐらい時間があっただろうか。
すでに風呂場の換気扇は切れている。

彼だったものは、すでに硬直が始まっており、血色も変色し始めている。
そんな変わり果てていく彼の姿を見て、私は一つやり忘れていたことを思い出した。

膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がると、私は台所へと向かった。
彼のために作った料理で使った洗い立ての包丁を取り出すと、また風呂場へと戻る。

また動き出すんじゃないかと少し心配になり、包丁で試しに右耳を削ぎ落してみたが、彼はピクリとも動かず安心し、私はその耳をゴミ箱に捨てた。

ちょうど顎の関節部あたり、冷たく固くなったその肌に、その切っ先を当て、ぶすりと力強く差し込んだ。
すでに血は出ず、代わりによくわからない液体が滲み出ている。

そのままザクザクと額から反対の顎にかけて、丸く皮をはぎ取っていく。
ようやく、彼女が見たくて仕方なかった顔の裏っかわというものが姿を現した。

「なーんだ、つまんないの」
待望したものとは程遠い、理科室の人体模型よりも気持ち悪い筋組織がそこにはあった。
当たり前といえば当たり前だ。
私は一体何を期待していたのだろうか。

「あ、そういえばね智くん。今更なんだけどね、私生理来てないの。本当は今日報告したかったんだけど、なんかその気も失せちゃったわ。あなたの子よ。名前はもう決めてるの。美彩って、どう?可愛いでしょ」

私は、ぶよぶよの顔の皮に話しかけた。
彼の顔の皮が、少しだけ笑ったような気がした。


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