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静 霧一 『Fanaticism X』

 
 仄暗い部屋の中に、銀色のナイフが鈍く光る。
 柄を握った手がカタカタと震え、手の平には脂汗が浮かび、ナイフが何度も床に滑り落ちた。
 私は震えながらナイフを拾い上げ、また心臓の位置に刃先を向けた。

 ナイフの刃先と私の柔らかな肌までは約数センチ。
 押し込まなければ何事もないというのに、私は恐ろしく死の恐怖というものを感じていた。
 やはり本能を理性で抑えることなどできない。
 死を覚悟したというのに、生存本能というものが私の最後の壁となって立ちはだかった。

「あはは……ダサいな……」
 乾いた声が、部屋に木霊する。
 そしてぽつりと、透き通るように綺麗な雫が一滴、床に滴り落ちた。

 ◆

「この資料、明日までに作っておいてくれ」

 夕刻の6時。
 部長が投げ捨てるように指示を出したかと思えば、私に背中を向けて帰り支度を始めた。
 私は、思考停止した口で「はい」とだけ答え、ひたすらにキーボードを打ち続ける。

 これがパワハラだといえば、全てが収まる世界であればどれだけ平和な世界だろうか。
 私はぐっと言葉を飲み込んだ。

 だが、考えようによってはこれは救いでもあった。
 どうせ私が家に帰っても、待っているのは真っ暗で無機質な部屋だけである。

 忙殺と充実は紙一重のところに存在しているのだ。
 私が今まさに立っているのは、この線の真ん中。
 右に傾けば奈落、左に傾けば雲上というところであった。

 ようは、"予定などない私にとって、舞い込んだ仕事は強制的に時間を埋めてくれるもの"という考え方に変えてしまえば、それは私にとっての名ばかりの幸運にすり替えられるのだ。

 だが、そんなことをしていても身が持つはずもない。
 世の中はポジティブシンキングになれなどと宣っているが、あれは罠だ。
 ポジティブシンキングなどというのは、自分の理想的英雄像を崇拝した一種の新興宗教そのものだ。
 だが、縋るもののない私にとって、そんな安い言葉でさえ天使の囁きにも聞こえ、私は思わずそれに祈るようにして手を合わせてしまった。

 会社のため、お客のため、それが回りまわって自分のためになるというが、どうも私の人生は充実しない。
 金のために働くとはなんて利己的なんだと、捲し立てるように叱責の言葉が飛び交う。
 一歩外へと出れば、仕事の後のビールは最高というキャッチコピーや、別れが人を強くするなどといったアート広告が溢れており、それに感化された私は、知らぬ間にずぶずぶと底のない泥濘へと足を進めていた。

 笑顔を絶やさず、愚痴を飲み込む。
 そんな毎日が、心臓に涙をため込み、とうとうそれは発作となって現れた。

 人間の感覚のうち、聴覚が最も優れており、死ぬ間際に最後に残るのは音だといわれている。
 それはその通りであったようで、オフィスの中で発作に倒れ、意識が朦朧とする中で、真っ暗な闇の中聞こえた言葉は「ったくめんどくさいことしやがって」という言葉であった。

 目が覚めると、私は柔らかなベッドで横たわっていた。
 視線を窓にずらすと、空の花瓶が飾られている。

 私にはもう家族はいない。
 一人っ子の家庭に生まれた私は、5年前、両親を交通事故で亡くした。
 もう私も30歳になるというのに、私を好いてくれる人など誰もいない。
 せっかくの個室だというのに、嫌というほど虚しく感じた。

 入院生活があっけなく終わり、私はふらふらと見知らぬ街を散歩する。
 死の間際に聞こえた「めんどくさいことしやがって」という言葉が、未だ耳に反響していた。
 もし発作ですべてが止まったのなら、それでも良かったのかもしれない。
 私は死を体験してしまったことで、何者にもなれないという現実を、私は知ってしまった。

 ふと、ビルに設置された巨大な広告モニターが目に入る。
「人生は一度きり!」
 女子高生が、空を駆け未来に向かう広告が大々的に流れていた。

 人生は一度きりという言葉は間違っていない。
 そうであるのなら、一体何のために苦しみや悲しみを私は飲み込んでいるのだろうか。
 飲み干した先に、希望の光が待ち侘びていると信じてやまなかったが、結局待っていたものは寂しさと虚無である。

 そんなもののために自分を偽っていたかと思うと、私の腹の奥から、思わず笑いが吹きこぼれてしまった。

 ◆

 私の心臓は一度止まった。
 そうであるのなら、もはやこの生というのは、神様が残した延長戦なのかもしれない。
 あの時の死は間違いではなかった。
 神様はきっと私にそれを確認させたかったのだろ。

 だが、神様は二度目の死、つまり延長戦を終わらせるのは自分自身だと告げた。
 だから、私は今、自分の心臓にナイフの刃先を向けている。

 きっと来世は幸せになれるはず。
 だが、来世にはもう私などという意識はない。
 そこにあるのは別の誰かの幸せなのだ。
 それを知ってもなお、死の直前までポジティブシンキングに狂信しているとは、なんて情けないのだろうか。

 私は笑みを浮かべ、ナイフでぐさりと心臓を一突きする。
 心臓が最後の高鳴りを打つ。
 傷口から、私の溜めこんだ涙が、飛沫を上げてとめどなく溢れ出した。

 おわり。

<歌詞>
溢れ出した涙のように
一時の煌めく命ならば
出会いと別れを
繰り返す日々の中で
一体全体何を信じればいい?

生まれ落ちた
その時には
泣き喚いていた
奪われないように
くたばらないように
生きるのが精一杯だ

胸に刺さったナイフを
抜けずにいるの。
抜いたその瞬間
飛沫を上げて
涙が噴き出すでしょう?

溢れ出した涙のように
一時の煌めく命ならば
出会いと別れを
繰り返す日々の中で
一体全体何を信じればいい?

屈託のない笑顔の裏、
隠していた
生きるための嘘が
最早本当か嘘か
わからなくて

自分の居場所でさえも
見失っているの
怒りに飲まれて
光に憧れて
今日も空を眺めるのでしょう

この人生に
意味があるのなら
教えてよ
脆く、儚い日々の中で

痛みや悲しみさえも
飲み干した今、僕らは
一体全体何を信じればいい?

溢れ出した涙のように
一時の煌めく命ならば
出会いと別れを
繰り返す日々の中で
一体全体何を信じればいい?

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