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鈴木大拙からスチュワート・ブランドへ ホールアースは宇宙技芸論で語れるか?

現在、放映されているNHKの朝ドラ(連続テレビ小説)は「ブギウギ」だ。主人公のモデルになっているのは、「ブギの女王」と呼ばれた笠置シズ子である。今回はここから始めて、京都学派、「ホールアース・カタログ」を経てユク・ホイの宇宙技芸へと話を広げていく。

J-POPのDNAはどこからきたのか

笠置シズ子は言わずと知れた歌謡界の大スターだ。大阪の松竹少女歌劇団でデビューし東宝へ移籍、太平洋戦争を挟んで、爆発力のある歌唱で多くのファンを魅了した。東宝と笠置シズ子といえば、黒澤明監督『酔いどれ天使』の「ジャングルブギ」にトドメをさす。「東京ブギウギ」「買い物ブギ」と並べて笠置シズ子の三大ブギと言いたいところだ。
ところでブギウギとは、アメリカの黒人音楽であるブルースのスタイルのことであり、ジャズやソウル、ロックンロールへとジャンルを超えて影響を与えている。わたしなどは、ブギーといえば最初に思い浮かぶのは、” King of Boogie”ジョン・リー・フッカーや” Natural Boogie”ハウンドドック・テイラーといったブルースメンか、ボラン・ブギーでお馴染みのT-Rex、ハードブギーのステイタス・クォーやらのロックバンドだったりするわけで、オタクというのは全くもってしょうがない。
ところで、戦前から日本はアメリカの黒人音楽であるジャズの受容においては先進的であった。多くの日本人、日系人ジャズメンに活躍の場があったし、それは世界的にも稀なものであった。アジアではアメリカの植民地であったフィリピンでもかなりジャズの普及が進んでいたが、それに比しても負けてないだけのカルチャーとして育っていた。戦争が近づくと、それこそ「東京ブギウギ」の作曲者でもあり、大音楽家の服部良一のように多くのジャズメンが上海に渡り、その命脈を繋いだ。
戦前は「浅草オペラ」に始まり根付いたヴォードヴィルショーで二村定一やエノケン(榎本健一)たちがジャズソングを唄ってヒットさせているし、戦後に至っては進駐軍まわりのジャズバンドのメンバーが音楽界のみならず芸能界の基礎さえ築いていった。
いやいや、誤解なきように付記しておけば、ジャズなる舶来の音楽を最先端とする見立てはまったく正しくない。正統派の西洋音楽から外れた大衆歌謡ジャズが、日本の庶民を楽しませた浪花節や音頭や都々逸と渾然一体となって、服部良一いうところの「道頓堀ジャズ」のような土着のダンス音楽を産み落としたからだ。舶来だろうと横丁のものだろうとなんでも混ぜて咀嚼してしまうパワーこそ日本の歌謡曲のDNAといえる。
ジャズであれ河内音頭であれ、日本には古くからダンス音楽の歴史があり、よくあるように戦後にFENで流れたプレスリーにショックを受けるまで、軍歌か演歌しかなかったような芸能史観はいいかげん古いうえに、日本のポップソング(J-POP)がアメリカ、イギリスのモノマネで遅れたものといった卑屈な考えも通用しなくなっている。そうでなくとも、近頃は1970〜80年代の日本を席巻したシティーポップが世界的に評価されているのだ(休日の中古レコードショップじゃこの手のレコードを抱えた外国人をたくさん見かける)。シティーポップのグルーブは一朝一夕で生まれるものではない。それこそ戦前の「道頓堀ジャズ」から連綿と繋がれてきたものなのだ。
このあたりは音楽学者の輪島裕介が、『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』、『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(ともにNHK出版新書)で強く訴えてきたこととも通底する。浅草を中心に活躍した多くのエンターテイナーについては、小林信彦『日本の喜劇人』(新潮社)、色川武大の『なつかしい芸人たち』(新潮文庫)など読むべき名著は多い。

笠置シズ子と鈴木大拙

笠置シズ子の代表曲「東京ブギウギ」の作曲は前述したように服部良一であることは有名だが、その作詞を誰がしたかを思い出せるひとはほとんどいないだろうし、ネットかなにかで調べて「作詞:鈴木勝」と書かれていたところで、それがアランという名をもつハーフで、その父親があの鈴木大拙であることを知っている人は限られるだろう。
西洋世界に禅を紹介した、京都学派を創始した西田幾多郎の盟友の仏教学者は、最初のアメリカでの講演旅行の際にベアトリス・レインに出会う。後にベアトリスが大拙を追って来日し、ふたりは結婚し養子をとる。それが鈴木アラン勝である。養子でありながらハーフなのは、アランがもともとスコットランド人と日本人の間の子だったからだ。アランが「東京ブギウギ」の作詞をしたのは戦中に上海で出会った服部良一との縁からである。しかし、アランはけっして作詞家として大成しなかったし、最初に志していたジャーナリストも続かず、映画や書籍の翻訳といった仕事をしながらも、酒癖の悪さから犯罪を犯し逮捕されている。
この親子の物語の詳細を語るノンフィクション『東京ブギウギと鈴木大拙』(山田奨治著/人文書院)は知られざる名著である。ハイデカーとさえ交流があったといわれる大仏教学者の息子は放埒に生き終生、無頼であった。そのことを父・大拙はただ見守るしかできない。大拙の半生を追いながら、平凡といえば平凡なベアトリスとの男女関係から、ようやっと築かれた家族の内なる崩壊は息子の心をどのように変えていったのか、丹念に読み解かれている。
私が『東京ブギウギと鈴木大拙』のなかでもっとも印象的だったのは、ビートニクで『路上』(福田実訳/河出文庫)を書いたジャック・ケルアックとの邂逅である。このビート詩人は1958年にニューヨークを訪れた際に、コロンビア大学で講義をもっていた鈴木大拙の宿舎にアレン・ギンズバーグらを伴って押しかけ、公案めいた質問を90歳に手が届こうとしていた大拙にした。大拙にとっても印象的だったのか、この出会いを語った座談会で「喫茶去」と書き残す。喫茶去とは、臨済禅の考案集『碧巌録』にも収められている趙州禅師の言葉だ。その意味は「お茶を飲んで目を覚ましてこい」とされる。このとき大拙はケルアックたちに抹茶をたて飲ませている。そして、別れ際に「お茶のことを忘れるな」と言った。この本では、大拙の喫茶去を「もてなしを通じて社会を忘れるな」という意味だったと解釈している。

次の世界を想像する若者たち

1950〜70年代にかけてビート世代、ヒッピー世代を通じて禅は大きな影響力をもっていた。スティーブ・ジョブズにも師匠となる禅師がいたことは有名だ。ジョブズが「生涯の師」としたのは曹洞宗の禅僧・乙川弘文である。
当時、多くの禅僧が布教のためにアメリカやヨーロッパに渡り、修行道場を開いていた。そのうちのひとつが曹洞宗の西海岸にあったタサハラ禅マウンテンセンターで、乙川はここを皮切りに師家として西海岸に長く滞在した。『宿無し弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』(柳田由紀子/著集英社文庫)を読むと、ヒッピー世代に慕われながらも奔放に自由に生きた禅師の、ある意味で悲劇的な生涯を知ることができる。しかし、大拙といい弘文といい、なぜに禅師は女性にモテ、だらしないのか。
アメリカは東海岸のほうにも臨済宗が開いた修行道場があり、シンガーソングライターのレナード・コーエンなどが修行している。レナード・コーエンはのちに日本の禅宗の堕落を厳しく批判している。禅寺に生まれ、コーエンら現代の吟遊詩人に憧れを抱いてきた私が、ずっと心に留めていることだ。
日本から海外に渡るばかりでなく、アメリカからも多くの若者が日本の僧堂へと修行に渡ってきた。有名なのはケルアックやアレン・ギンズバーグに並び称されるビート詩人、ゲーリー・シュナイダーだ。ケルアックが『ザ・ダルマ・バムズ』(中井義幸訳/講談社文芸文庫)で主人公のモデルにした人でもある。彼は1950年代の終わりにはすでに京都の大徳寺僧堂で修行していた。私の父親の知り合いにも当時、大徳寺僧堂に関わった人も何人かいて、そういう人たちにゲーリー・シュナイダーのことを訊いたことがある。ただし、外国人は何人かいたから思い出せないといった答しか得られなかった。
それほどまでに、禅をはじめとする東洋思想は戦後世代の若者を惹きつけた。それはある種の自由さを提示したからだろう。精神の自由というそれまでに知ることのなかった自由、それは物質的に得られる自由とは対比的なものだ。なんでも欲しい物を欲しい時に欲しいだけ手にいれられるという自由とは隔絶している。それが若者をして惹きつけたのではないか。
ふと思い出したが、ギンズバーグの代表作は数年前に柴田元幸の新訳がでた『吠える その他の詩』(SWITCH LIBRARY)だ。吠えるは、1955年、サンフランシスコの朗読会で披露され、ビート世代の誕生を知らせた。ビート世代の音楽はジャズだ。アメリカ本国でのジャズの受容はある意味で日本より遅れていた。それは差別対象である黒人の音楽であったからだ。黒人音楽は白人に搾取されることで大衆化したが、肝心の黒人ミュージシャンが日の目を見るようになるには、戦後世代の若者の登場を待つよりなかった。彼らは古い世界を嫌い、旧い世代を恨んだ。ジャズが鳴り響く地下の世界で若者たちは次の世界を想像していたのだ。

偉大なる媒介者スチュアート・ブランド

新しい世界を想像していた若者のひとりにスチュアート・ブランドがいる。60年代おわりに「Whole Earth Catalog」を生み出した男だ。「Whole Earth Catalog」は、その後の世界の雑誌文化そのものを創りなおしたといえる、大きなイノベーションだった。
「Whole Earth Catalog」は、今でこそ、2005年のスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学卒業式で行ったスピーチでの締めのひと言「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の原典として有名だが、すこしの間、忘れられていたきらいがある。
私がそう感じるのは、スチュアート・ブランドがある時期、原子力発電の推進派の旗振りをしており、「Whole Earth Catalog」で育ったリベラルな若者たちは大人になってもさすがにそれを受け入れられなかったからだ。さらにわるいことに、福島第一原発事故が起きた。スチュアート・ブランドの名はむしろ悪く響くようになったのかもしれない。とは言いながら、日本では2013年、雑誌「Spectator」がVol.29、30の2号にわたって「ホール・アース・カタログ」〈前編〉〈後編〉を特集している。いまでは古本で高値をつけるこの2つの号を幸いにして手元に持っているのだが、ブランドは〈後編〉号でインタビューに答えている。そこで印象的なのは、ジョブスの「コンピュータは自転車だ」という発言に対して、ブランドが「むしろアンプ(増幅器)だね」と述べるところだ。
『ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生』(ジョン・マルコフ著/服部桂訳/草思社)が刊行されたのは先日のことだ。翻訳者の服部桂さんには「IT批評」でインタビューした。それはケヴィン・ケリーやジョージ・ダイソンの著作について訊くためだったのだが、服部さんはこの書籍の原本を携えておられ、翻訳中だという。「Whole Earth Catalog」が種を撒いた雑誌文化で育った私は思わず「ホールアースカタログ!」と声をあげてしまった。もちろん、ケヴィン・ケリーが「Whole Earth Catalog」で編集者人生をスタートしたことは彼のプロフィールでも触れられている(ブランドはケリーのことを「ホールアース」の精神を継承する人物と評する)し、まったく見なくなったタイトルでもないのだが、それでも思わぬ出会いだと思った。
地球を外側からみるという大転回については、「IT批評」の服部桂さんインタビュー(「地球全体を外側から眺めるという知的な革命――ジャーナリスト・服部桂氏に聞く3」)を読んでほしいのだが、その際に、『ホールアースの革命家』の内容も断片で聞いており刊行してすぐに手に入れページをめくった。
読了してわたしが思ったのは、スチュアート・ブランドという人は偉大な媒介者だということだった。ネイティブアメリカン文化を見直すイベントを始め、雑誌にイノベーションを起こし、環境問題をリードし、マンモスをDNAから再生しようとしたり、1万年時計をつくったり、原子力発電を推進したりする。こうした行動には、一般的な思想的あるいは政治的な一貫性を感じにくい。
詳細に読みこむと、むしろありきたりな一貫性に硬直した人たちへの嫌悪さえ垣間見られる。リベラルな新左翼的な文化保護の姿勢、愛と平和のフラワームーブメントはフェイクと退け、環境問題運動から距離をとり欺瞞を暴く。ブランドは思想的にはリバタリアンとされているが、私にはそれさえもブランドにとっては不要なレッテルな気がする。
ブランドは何にも取り込まれずに(間を漂うことで)真から自由であろうとしているのではないだろうか。そのために、必要なのは自立のためのテクノロジーとツールであり、それを皆の手に委ねるために「カタログ」を創った。
テクノロジーとツールを扱った「カタログ」は、やがてパーソナルコンピュータの時代を招き寄せ、すべてを媒介してしまうインターネットの時代を準備した。「Whole Earth Catalog」は「Google以前のGoogle」と言われた。
現在では、スチュアート・ブランドはシリコンバレーの源流の一人とされている。MITのメディアラボにも足を踏み入れつつも、どこかに属しているように見えないブランドは、自由であるために媒介者であり続けたのではないのか。本のなかで面白いのは、LSDやペヨーテなどで世界を感じ直すことに熱心で、いくども禅の瞑想にとりくみながら禅にハマらなかったことだ。ブランドには禅の瞑想がどこか似合わない気がする。
ブランドが偉大な媒介者であるがゆえに、『ホールアースの革命家』には多士済々が登場する。ケルアックが無謀な運転をするワーゲンバスに同乗したり、マーロン・ブランドの自宅に招かれたり、ブライアン・イーノとプロジェクトを組んだり、ジェフ・ベゾスから出資を受けたり、そのほかにもアカデミックな学者たち、天文学、人工知能学者など、この名もあの名も、といった勢いで登場してくる。先の『東京ブギウギと鈴木大拙』に出てくるビート世代の有名人も、『宿無し弘文』に出てくるヒッピー世代の有名人もほとんど網羅的に登場する。
この50年間の先進的な部分のどこにでもスチュアート・ブランドという名を探せるのではないか、そんな気になるのは、ブランドの半生のなかに雑誌という旧メディアからインターネットという新メディアへと架橋されていく若者文化のエッセンスのほとんどが凝縮されているからだろう。

情報はフリーになりたがるか

スチュアート・ブランドの有名な言葉に次のようなものがある。

「一方で情報はとても価値があるので、高価になりたがっている。正しい場所では正しい情報があることは人生を変える。しかし他方では、情報を得るコストがどんどん下がっていくので、情報はフリーになりたがっている。そこでその両者がいがみ合うことになるのだ」

『ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生』

1984年の第1回目のハッカー会議でのものだ。どういうわけか「情報は自由になりたがっている」の部分だけが流布し、その後のオープン革命、インターネット文化のマニフェストになっていった。
自立のためのテクノロジーとツールと前述したが、パーソナルコンピュータこそが強力な自立のためのテクノロジーとツールであり、このテクノロジーとツールはわたしたちの行動を変えて倫理観を醸成し、カルチャーを創成する。このカルチャーこそが、ヒッピー世代からハッカー世代、現代へと引き継がれたものであり、スチュアート・ブランドが各所、各時代に媒介することで増幅されたものだ。
ITの進化と切ってもきれない思想であるオープン革命にさえ、ブランドの大きな影響はかんたんに見てとれる。近頃のAIの民主化といった標語も、もともとブランド的なリバタリアニズムに原型があるのではないか。
さて、わたしがブランドの有名な言葉に何を思ったのか。
それはここ数回の記事で取り上げてきた「偏在」と「遍在」の問題である。高価になりたがることで偏在するテクノロジー、フリーになりたがることで遍在するテクノロジーと読み替えたいのだ。
「偏在」と「遍在」について最初に触れたときに述べたのは、ユヴァル・ノア・ハラリとケヴィン・ケリーとの宗教性の違いだ。それはユダヤ-キリスト教的な偏在と東洋思想的な遍在という対比であった。むろん、ケリーはブランドの影響を受けている。一方で、ブランドはいくども「私たちは神に近づく」といった表現をする。仏式で結婚式を挙げたブランドがいう神が、ユダヤ-キリスト教のそれでないとしても唯一の存在としての神であることは間違いないだろう。

「偏在」と「遍在」のアンチノミー

こうした対比による理解が浅薄な短絡でしかないと思い知らされる一冊に出会ったのは2023年の後半のことだ。それは前回も紹介した香港の哲学者、ユク・ホイの『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』(伊勢康平訳/株式会社ゲンロン)だ。
ホイはハイデカーの技術論を引きながら、そこに潜む全体主義やファシズムの要因を突く。数回前のここでもとりあげたハイデカーは、現代の技術が用立てをもつこと、つまり目的をもつことで人々さえもひとつの手段にすると述べる。ホイはこの「集立」が人々のあり方を規定してしまうと危惧する。
ホイはこの『宇宙技芸試論』でわたしの「偏在」と「遍在」ともいえる記述をしている。ホイはこれを対立ではなく、カントのいうアンチノミーの2項、つまり相反しながらも成立する命題として序論で扱っている。長めだが引用しておこう。

この問いをカント的なアンチノミーのかたちで提示してみたい。⑴技術は人類学的に普遍である。技術とは身体機能を延長し記憶を外在化することにあるのだから、異なる文化のあいだに生じた差異は、実際の状況が技術的傾向を屈折させた程度に応じて説明できる。⑵技術は人類学的に普遍ではない。異なる文化のさまざまな技術は、それらの文化がもつ宇宙論の理解に影響され、ある特定の宇宙論的背景のなかでのみ自律性をもつ──技術はつねに宇宙技芸である。

『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』

ホイは中国においてテクノロジーを問い直さねばならないという。中国におけるテクノロジーのあり方、ひいてはそれを用いる人々のあり方は、西洋的な宇宙観に侵されながらも、その宇宙技芸を取り入れておらず「根こぎ」されている。
ところで、宇宙技芸とは世界各地の文明がもつ宇宙観、宇宙論から発する多様性をもつテクノロジーのことである。
東洋的な宇宙観とは端的にいえば天地のことであり、たとえば「革命」という語は天命を革めるという意味であり、東洋人は天の意思によって社会を作り変えてきたのだ。
ホイはまた道教、儒教の思想から、器と道という中国のテクノロジー観を論じる。道具(ツール)を意味する「器」に対し、「道」はその上位にある道徳を意味する。この器と道の関係を捉え直すことで中国における技術哲学を定式化できるとホイは述べる。スチュアート・ブランドが導いたパーソナルコンピュータ(器)以降の道徳(道)が無節操な自由を志向しているのではないかと、ホイの議論を読みながら思った。ここでもテクノロジー/ツール(器)と自由(道)の関係を捉え直すことで、AI時代の哲学を見つけることができるのでないか、と。
東洋人はなんとか自分たちの手で社会を近代化しようとしてきた。近代化とは科学によって自然をよみとることとも言えるのだが、その際に自然の捉え方、あり方を西洋風のスコープに置き換えようとしてきた。ために多様性が失われ、東洋にあった道徳観や人間観が損なわれたと東洋人は苦しんだ。同じころ、西洋人はニヒリズムに陥っていった。
それをなんとしても乗り越えようと日本では京都学派が有名な「近代の超克」といわれる論を提示した。太平洋戦争中に雑誌「文學界」で行われたたシンポジウムを指し、戦中の言論を決定した「近代の超克」。明治以降の近代化のなかで、西洋文明の押し付けによって損なわれた自らのあり方を取り戻すとして、戦争推進支持を鮮明にし、西欧列強からのアジア解放を大義づけた。これこそ、ハイデカーのいう「集立」であり、日本は総動員体制──ハイデカーの「集立」は近年では「総駆り立て体制」と訳される──で人と技術を犠牲にしていった。ユク・ホイは『宇宙技芸試論』のなかで京都学派の近代の超克について「形而上学的ファシズム」だと指弾する。近代の超克を牽引した京都学派はハイデカーのテクノロジー批判を味方にしたゆえに、総動員体制を後押しする思想となりえた。ホイはなかでもハイデカーに師事した西谷啓治にページを割いて、彼が「テクノロジー化された世界は、人間の本性にも自然そのものにも沿わない虚偽にしたがって構築される」と論じた点を追求する。西谷はこの虚無、ニヒリズムを東洋の「空」の思想に対比させる。そこに東洋の優位を見ようとする。よって西洋に代わって東洋の時代を求めるということになる(ごくごく簡単にいえば、それが形而上学的ファシズム)。それが戦争を後押ししていく──。
この本でホイはさらに深く中国の儒家について論じるのだが、私はそれを要約しながら取り上げる力はない。
京都学派や近代の超克について多くの研究書があるが、ここでは『京都学派』(菅原潤著/講談社現代新書)を参照した。

ホールアースという宇宙観

『宇宙技芸試論』は、『ホールアースの革命家 スチュアート・ブランドの数奇な人生』を読んできた私たちにひとつの示唆を与える。それは次の一節だ。

私たちは地球(グローブ)という天体のイメージも問いに付すべきなのだろう。

『中国における技術への問い 宇宙技芸試論』

現在の私たちの宇宙観とは、ブランドが手に入れ世界に公開した地球の写真の影響下にある。地球を外側から初めて目にしたときに、それはブランドとも交流のあったバックミンスター・フラーのコンセプト──『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(芹沢高志訳/ちくま学芸文庫)──や、ジム・ラヴロックのガイア仮説──『地球生命圏 ガイアの科学』(スワミ・プレム・プラブッダ訳/工作舎)──といった地球観が生まれた。それはユク・ホイが『再帰性と偶然性』(原島大輔訳/青土社)でとりあげるサイバネティクスのコンセプトとも通底している。ホールアースから発想される全体性をもつ自然観と、反省(フィードバック)によってテクノロジー批判を出現させた西洋の宇宙観とも密接な関係にある。
ブランドの影響を受けたシリコンバレーを中心とするオープンで自由なテクノロジーの遍在さえも、実は結局のところ、ホイのいう技術の多様性を阻害しているのかもしれない。私はそこに気づいたときに、ユヴァル・ノア・ハラリとケヴィン・ケリーの対比さえもまだ浅薄なものだと考えるようになったのだ。
だとすれば、テクノロジーの多様性を実現しうる宇宙技芸を日本人も日本人の手で建て直さねばならないだろう。それは黒船も外圧もなしに、だ。

ユク・ホイはハイデカーのテクノロジー論のひとつの考えである「放下(Gelassenheit)」が、道家思想の「無為」と同一視されているという。このようにして東洋的な価値観を証明するために、日中の思想家はハイデカーを利用したのだ。ハイデカーの放下とはヒューマニズムの一旦の放棄であり、それによって存在を根本から問い直そうという方法である。
ところでドイツ語のGelassenheitを放下と訳したのは誰だろう。なぜなら、放下は仏教にとっても執着や欲望を捨てる重要な方法なのだ。その原典は『碧巌録』の趙州禅師のものであり、日本では道元の『正法眼蔵』でも重要な考えである。
私はずっと若い頃からハイデカーのそれと道元のそれの相違について考えてきた。そのなかでやはり京都学派にぶつかり、西田幾多郎、鈴木大拙を読んできた。近代の超克のみならず、日本の仏教界がこぞって太平洋戦争を「聖戦」として推進したことに悩みつづけてきた。
ここにきて、ユク・ホイの論述が私に新しいヒントを与えてくれている。

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