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バツの母親

「カードの×は母親の×です」
書いてみて改めて衝撃を受けた。
そして気づいた。私、まだそこに傷ついていたんだ。

子どもの保育園の保護者関係に悩まされている。
周囲の保護者に悪意があるわけではない、と思う。
ただ、うまくコミュニケーションが取れないだけなのじゃないかとは思う。
だけど、それだけで疑心暗鬼が広がり、心と体をむしばんでいく。
特定の保護者に対して腹が立ち、イライラが止まらない。
夜になるたびに憂鬱で泣きそうになる。
保育所を辞めたい。送迎を辞めたい。
だけど保育所を頼らないと仕事にいけない。仕事にいけないと生活ができない。がんじがらめの私に選択肢はない。
そういう思考にとらわれている自分も嫌になってきた今日この頃。
まずは、この落ち込みのために子どもの生活のフォローをうまくできていないことについて担任に伝えようと筆を執ったのは、夜更かしの子どもをやっと寝かしつけて、自分ひとりでひとしきり泣いた後。0時を回っていた。
努めて冷静に。書きなぐってしまわないように。字を丁寧に。
荒れた字を見たらまた心が荒んでいく。
努めて丁寧に字を書くことでなんとか冷静になりたい。
そして、せめて自分の気持ちくらい丁寧に大事に扱いたい。
そう思いながらゆっくりゆっくりと文章を綴った。
なるべく「自分のこと」を書こうと思った。人が悪いじゃなくて。
そういう悪意に飲み込まれると碌なことはないから。

この4月から年長になった長女。
年長児として、保育所で一番お姉さん、お兄さんとして小さなお友達にお手本となる姿を見せていく存在となるべく、先生たちの新しい教育が始まっていた。私はいつもどこか、子どもはそんなに焦って成長しなくていいと思っていた。成長はしてほしいけど、そのために大人のサポートは必要だけど、成長することは痛みが伴うこともあるし、それに怖気づいてもいいじゃないかという気持ちがいつもあった。子ども時代に自分がいつも恐れていたことなのかもしれない。
だけど、行事は目白押しで、コロナ禍の終息に向かって世間がどんどん進む中、さらに行事がどんどん増えていく。子どもが一人でそのスピードに乗っていくわけではなくもちろんその都度大人の介入が必要だ。家庭生活にもサポート業務は浸食してくる。自分の子どものサポートくらいしていくのは当たり前の話なのだけど…。それでも、わが子はどうもアップアップしながら目指すべき成長になんとかついていっている状態で、そうなるとさらに大人のサポートが必要で。だけど、家庭でいくら話をしても当の本人は意に介さず常にマイペースだ。
今月半ばにある行事に向けて一回り成長することを目標に、自分の身の回りのことを自分でしたり、就寝や起床時間を自分で意識したり、家庭でのお手伝いをするという課題が課せられていたが、そのほとんどが娘一人ではできないことばかりだ。
家事と仕事と子育てをしながら、さらなる課題に取り組む。その課題達成のために課題を準備し、声かけをして遂行できるように誘導する。それは私にとって大きな大きな負担となった。

とはいえ、何もなければ前向きに自分の試練だとばかりに取り組めるような些細な事だ。これによってわが子が一歩前に進むならむしろやりがいさえあることじゃないかと思う。
しかし、そこに来て保護者問題が勃発。
問題というほど大きなものではない。いじめられてないし、ハブられてもない。結構な数の保護者は協力を申し出てくれている。だけど、一緒に係をする人達とのコミュニケーションがうまくいかない上に、他の係のはずの保護者が夫婦で乗り込んできてご意見とご協力を下さる。

ここで詳細を語りだすと闇が止まらないので(私のnoteはこればかりだけど)割愛するけれど、この対応をしているうちに心がどんどんしぼんでしまった。その保護者に強い怒りさえ覚えたし、保育所には行きたくなくて実際になんと貴重な休暇をすごく調整して1日使ってしまった(自分の心を保つためには仕方なかったと思っている)。
私の有給返せとか、もうお前がやれよとか、私を利用すんなよとか、つーかあっちが辞めてくれよ顔見たくないよとか…そういう気持ちでないまぜになっていたんだけど(結局、結構書くやないか。割愛とは何ぞ??)
でも、そんなことより、今日娘が涙を流したことが一番ショックで呆然としてしまった。

保育所から与えられた課題のほとんどに「×」をつけざるを得なかった今日。
娘は毎日、私の促しに対して反抗的で「×」をつけたくない、「〇」にしたいと言いながらも全く課題を実行しようとしなかった。促しても促しても特段気にしていないそぶりに疲れてしまった私は週末の今日、ぼんやりと夜を過ごしていた。その時、ふと娘が課題に「〇」をつけるには今からどうしたらよいかと尋ねてきた。
残念ながらそのための時刻はすでに過ぎていた。それを伝えると娘はとても驚いた様子で立ち尽くし、ぽろぽろと涙を流したのだ。
「ちゃんとやりたかった」
そう言って私に抱き着き、ただただ泣いた。
いつも反抗的で、絶対に実行しようとしなかったのに。
やりたかったんだ…。わからなかった。
いや、5歳の子どもが保育所で先生に動機づけされてクラスのみんなが毎日「〇」をつけてくるカードを見て、「やりたい」と思わないわけはない。うまくできないとしても、やりたいと思うのは普通の心の流れだろう。それをわからなかったですますわけにもいかないだろう。
だけど、今の私の状態では全くそのサポートをしてあげる余裕がない。
何度声かけしても促しても誘っても準備しても動かない娘に、何度も怒らないように語り掛け、手を取り、一緒に取り組む気力はどこにもなかった。
最初はそんな課題を課してくる上に、面倒な保護者を放置している環境に腹を立てた。
なぜ私がこんな思いをしなければいけないのかと苛立った。
保護者会さえなければ。
保育所も私の現状を把握しているのになぜ要求ばかりするのか。と。

表面的な落ち着きを取り戻し、まずは子どもたちを寝かすことに注力した。あまり考えないためには、作業をすること。
片づけとか、洗い物とか、子どもの歯磨きとか、寝かしつけとか。
でも、子どもと一緒にいたらまたモヤモヤがやってくる。
モヤモヤは怒りや苛立ちにもなるけれど、気が付けば涙もにじんでくる。
『ママ、どうしたの?』
「わからないけど、悲しいの」
『どうして悲しいの?』
「どうしてかは言えないの。そういう時もあるの」
『どうしたら、ママが楽しい気持ちに戻るかな』
純粋な生き物だな子どもは。目の前の母親は苛立ったり鬱々としたりしてとても頼りないのに。あなたのサポート役として役に立てていないのに。
「あのね、〇になるように気づいてあげられなくてごめんね」
そういうと、娘もまたぽろぽろと涙をこぼした。
『いいよ』
ごめんねのあとにいつも言うお決まりのセリフ。ごめんね、いいよ。
「ちゃんとできるように教えてあげられなくてごめんね」
『いいよ』
小さなぽちゃぽちゃの手のひらで目尻を何度も拭う。
「ありがとう」
『ママ、ありがとう』
「大好きよ」
『ママ、大好きよ』
ティッシュで顔を拭いて、一緒に横になる。
そこでやっと何か見えるような気がした。モヤモヤが少し形になっていくようなそんな感じ。

娘が眠ったのを確認して、そっとリビングに戻る。
夕方読んですぐに閉じた連絡帳をまた読んでみる。
【〇〇持ってきてください】
【〇〇がありません】
準備なんかできていない。もう一人でなんかできない。
ページをめくってゆっくりと現状と今の気持ちを綴る。
「正直、サポートができていません」「自信がありません」
書いては止まり、読み返すわけでもなくただ自分の書いた字をじっと見る。
読み返すと少し恐ろしい。こんなこと連絡帳に書くことが恥ずかしい。
だけど、つくろってできてるふりをしてももううまくいかない。
娘の取り組むべき課題のサポートがうまくできないこと、
「×」が付くのを見て悲しそうにする娘を見ると申し訳ないこと
そして最後に「カードの×は母親の×です」と書いた。
それ以上の言葉は紡げなかった。
そうだ。私はバツの母親なんだ。できてないんだ。
子どものサポートも保育所の準備も、保護者間のコミュニケーションもできない。全部バツなんだ。私がバツだということが辛かったんだ。やっぱり力不足の母親なんだ。それがとても悲しかった。悲しんだところで何も変わらない。力はわいてこないし、コミュニケーション能力も向上しない。自分に力がないことはどうしようもないことだけど、でもなんとか諸々乗り切っていかないといけない。やり方は分からないけど。でもやるしかない。
まだこれからも子どもたちの親でいたいから。
だけど自信はない。見通しもない。どうなるかはわからない。
でも、まずは傷ついている自分を見つけた。
見つけたから次は、傷の手当てをできるかな?次に進めるかな?
バツのままでもそのままママでいたいな。
できればマルとか、贅沢は言わない、サンカクでもいい。
でも、成長できなくても、バツのままでもママでいたい。
我がままかな。(一部勢力から叩かれそうね)

子ども服やポケモン・プリキュアの食玩を買います。あと、ねるねるねるね。