渋谷の意味ない、

───渋谷は人が多すぎて、僕は自分が「どれ」なのかわからなくなってしまった。

あのころの僕はただひたすら世界の途方もない大きさに驚いてばかりで、どうしようもない自意識過剰少年の一人だった。でも、それは実際には違ったと思う。君がいなくなってから、僕は僕について、僕自身について、深く考え出したのだから。僕が過剰に意識していたのは君のことで、周りの人々のことだったのかもね。僕は僕についてではなくて、君と相対する僕、周りの人々の目にうつった僕、についてばかり考えていた。

「アフリカの子供ってのはなあ!幸せなんだよ。おれたちなんかよりなあ!アフリカの子供はみんなおなじだからなあ!」

と、遥義伊先生ががなりたてる。遥義伊先生は物知りで優しい。先生は昔、社会学を勉強していたらしい。先生は極左で、資本主義と対決した結果、敗北し、甘んじて中学の社会の先生という職業を受け入れている。僕はそんな先生が好きだ。

夢を見ていた。優しい社会科教師の夢を。教室には僕以外の誰もいない。違和感はなかった。君がいなくなって、僕は僕へ、僕の過去へと向かっているのかもしれない。ずっとひとりぼっちだった、中学の頃へ。僕と先生との閉鎖的な対話の中へ。

「自我は!日本人の自我は!アフリカ人の子供の自我は!どうなのですか!西洋人の自我は!先生!先生!」

僕が叫んでいるのを僕は見ている。手は挙げず、先生の話を遮って、僕は叫んでいる。そののち、僕は机を叩き始める。痛みを、これは夢である、と感じるためだ。そして、机をひっくり返して、天板を外し、裏に遥義伊先生への寄せ書きを始めた。僕と、僕を取り囲む無数の僕で。遥義伊先生ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう。僕が社会を知ったのは遥義伊先生のおかげ。遥義伊先生は人生。遥義伊先生は硬直している。寄せ書きが一段落して、遥義伊先生が口を開く。

「百万円もらってもなあ、隣のやつが一億円もらってたら、不幸なんだよ!おまえら全員百万円だ!年収百万円!で、俺が一億円だ!わかったか馬鹿野郎ども!」

「ひゃくまんえん!ひゃくまんえん!うまい棒が十万本ですよ!十万本ですよ!うまいうまい!」

唐突な遥義伊理論に、僕は、僕らは歓喜していた。中学生の僕らにとって、百万円は天文学的数字だ。でも、僕は、ただ一人中学の制服を着た大学生の僕は気づいていた。年収百万円では生活は難しい。

歓喜は熱狂へと変わり、僕はターンテーブルを取り出し、僕がEDMを流し出した。僕は教室の天井にミラーボールを設置する。僕僕僕。息が詰まる僕の学校だ。酸欠の僕は教室を出ていく。

「授業中ですよ!腐れタロイモ!」

僕が僕を叱りつける。授業中に教室の外に出てはならないのだ。一方で、遥義伊先生は踊り狂っていた。阿呆のように、猿のように。

バーカウンターが発生して、バーカウンターにはコーヒーが並んでいる。泥水啜り放題。年収百万円の、コーヒーで酔っぱらってしまう中学生の僕らの、虚しい熱狂だ。砂糖もミルクも入れないで、濃すぎるブラックコーヒーに噎せて、制服を汚す。

「お母さんに叱られますよ!こらこらこら!お母さんがこわい!女がこわい!この世はこわい!こわいところへ行ったよ!こわいこわいこわい」

僕は意味不明なことを叫んでいる。僕は僕が消えて欲しいと思った。その瞬間、消えた。僕は僕の中から僕が消えていくのを感じた。

四角い箱の中に遥義伊先生がいる。遥義伊先生はコーヒーのカフェインで焦燥感に襲われ、部屋を這いずり回っている。年配の先生には体力がないから立つことはできない。僕が消えた教室には静寂が訪れ、遥義伊先生はひとりぼっちになったようだ。

「幸せじゃない!不幸ならやつらがいないと幸せじゃないんだ!うわあ!」

かつて、社会学を学んで世界の格差を是正しようとしていた遥義伊先生は叫ぶ。

そこで夢は醒めた。実際の遥義伊先生は優しくはない、恐い、社会学おじさんだった。記憶は美化されていく。遥義伊先生は優しい人に。中学で実際はひとりぼっちだった僕の周りには、僕ではない僕、かといって他者でもない僕がたくさんいる。中学の頃の僕には他者はいなかった。遥義伊先生とふたりぼっちの社会だったのかも。もちろん、家に帰ればお母さんが、お父さんがいたけれど。僕は社会の中の僕を捉えられていなかった。言うなれば、そこに僕はいなかったのだと思う。君と出会ってから、そしてまた君とさよならしてから、僕は僕の中に僕を発見したのだから。

目が覚めると僕は、変わり果てた姿の僕を白いベッドの上に見出した。

「お!」

叫んだのは兄の世存だった。世存は似合わないサングラスを掛け、迷彩のセットアップを着て、僕のベッドに腰掛けている。

「痛み・アドグルは解体されたよ。餅男、おまえは生き残ったんだ」

痛み・アドグル、痛みアドヴォケイト・グループは、僕の所属している、痛みを提唱するグループだ。近年、アドヴォケイト・グループ、アドグルは増え続け、アドグル同士での抗争が激化している。

「じゃあ、光・アドグルは、鎖・アドグルは、蹴鞠・アドグルは?」

「わからない。でも、痛み・アドグルは集団自傷行為を行った結果、公安によって解体されたんだ。そして新しいアドグル、トマニン・アドグルができたよ」

「トマニン・アドグル!そのアドグルに入りたいなあ僕は!僕は!この僕が!ここにいる僕が!トマニン・アドグルに!」

「餅男が、トマニン・アドグルかあ。美味しそうだなあ!」

僕は気づいていた。これはまた夢だ。兄の世存は存在しなかった。世存は、僕がまだ二歳の時、八歳で交通事故で亡くなった。お父さんもお母さんも、そのショックでずっと気が狂ってしまっていた。僕の、お祖父ちゃんに名付けてもらった餅男という名前は、両親には忘れられ、僕は世存と呼ばれるようになった。つまり、お父さんお母さんの中では、僕は世存だ。家の中では世存として振る舞い、家の外では餅男として振る舞わなければならなかった。学校のテスト用紙に書く名前、また遥義伊先生に呼ばれる名前と、お母さんが僕の上履きに書く名前、また家で両親に呼ばれる名前の、二つの間で僕は分裂した。物心がついた時には既にそうだった。そうそう、それから、君と出会ってから、僕は僕を、餅男を、発見したのかもしれないね。僕は、僕であって僕ではない僕、と、存在しない兄、無意識の想像上の兄、世存との会話を自動再生される動画のように見ていた。兄の世存はサングラスを掛け、迷彩を着ているものの、僕によく似ている。

病室のドアがゆっくりと開いて、僕はここが病院であることに気がついた。部屋にはベッドが他にも置いてあるが、患者はいない。お父さんとお母さんが入ってきた。

「世存、何をしているの?死体に話しかけて。気味が悪いわ」

死体?僕は、僕の身体を見て、数分前よりももっと変わり果てた姿、干からびてしまっていることに気づいた。

「会話だよ。話し・アドグルでは会話を提唱しているんだ。会話することが俺のすべて、俺の人生のすべてさ。お前もそうだろ?餅男」

僕の喉は完全に干からびてしまっていて声は出なかった。手足も動かない。僕は僕の身体から抜け出て、さっきの夢ように上から僕と僕の家族を見ている。

「知らない人間の死体に名前を付けるなんて悪趣味ね」

「いったいどうしてしまったんだ世存」

僕の叫び出したいような悲痛な思いは声にはならず、僕の中で乱れて反響していた。そいつは僕じゃない!僕じゃない? 僕は世存じゃない。僕は世存じゃない? 彼等の中では僕は世存だった。じゃあ僕は本当はなんなのだろう?餅男、そう呼んでくれる人はここにはいない。世存は、死んでいるのだから。でも、もし世存が生きていて、今現実に現れたら、僕はどうなるだろう? この夢のように、僕はお払い箱になって干からびるのかな。

「死体は焼かねばならん。腐ってしまっては困るからな。骨になれば収納も楽だしな」

お父さんはそう言い、僕のベッドに火をつけた。三人は僕に、僕の燃える干からびた死体に目もくれずに病室を出ていった。僕は、燃えている僕の死体を上から見ていた。

そこで夢は終わった。君が僕にくれた薬「夢の湧水」の効果は絶大だった。僕は凄惨な映画を見終わったような倦怠感で、ここが渋谷ハチ公前であることに気づいた。ハチ公前で、座って長い間眠っていたのだ。昼の渋谷には人がごったがえしている。いったい僕は「どれ」なのだろう? 世存は? 僕じゃない。餅男は? 僕をそう呼んでくれる君はどこかへ行ってしまった。僕は君と出会って、僕を発見したのに。

人の多すぎる渋谷で、僕は、

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