路上の意味ないおれら

例えば、傘をさす。雨が降ってた、その日は。で、カップルがいた。いや、まだ付き合ってはない。男の子と女の子。微妙な距離感。でも話したいから二人は近くに寄る。それだとぶつかる、だから傘を相手のいない方に傾ける。すると、雨が入ってくる、肩が濡れる。で、その濡れた肩を、その濡れてもいいと思うのを、愛おしいと思った。でも、原始時代には傘はないからこの話は無し。そんな感じの話を、李有はした。

李有とは、海で出会った。五ヶ月降り続いた雨は、渋谷に大きな水たまりをつくった。人々はそれを海と呼んだ。海には、誰もいなかった。海に行くと李有が座っている。雨は降り続いている。おれがつくっていた爆弾はとうにしけて、爆破はできなくなった。だから、おれは海にきた。李有は雨に濡れている地べたに座って、

「原始時代には傘はないから、おれは傘を使わない」

びしょ濡れになりながらいつもそう言っていた。

どうしようもなかった。嫌気がさした。世界全体が狂っている。おれが狂っているのではない、おれ以外のすべてが狂っているのだ、と本気で思った。そうして、渋谷を爆破しようと思った。爆破しよう。できるだろうか。爆破せねばならぬ。巨大なビルが倒れる。タワレコが、ツタヤが、109が燃えている。ハチ公が咆哮する。ヒカリエは光っている。ストリームには嵐が吹き荒れる。乱世を待望する。 いや、待ち続けることにはもう飽きた。獲りに行く。そんなことを思い爆弾を精製していた。だが、希望は消え去った。失敗だ。誰のせいでもない。死のうと思った。だから海にきた。のがおれ。今ここにいるおれ。

海には、李有の他にも人が現れ始めた。そこで数人が徒党を組みだした。高層ビルに囲まれた海、もちろん砂浜はなくアスファルトで、そこでバカが数人徒党を組んだのだ。李有はその輩どもには馴染めず、Jinmenusagiの如きフロウで独り悪態をついていた狂人である。「 俺は決してバカじゃないないないバカじゃないバカじゃバカじゃバカじゃないないない…」輩どもは、曖昧な、どうしようもない奴らだった。目的も、方向性もなく座っていた。座りながら、ウロウロしたりした。そんなことはできないけどね、まあ。性欲、人間の三大欲求のひとつと言われているが、ここでは広義の性欲ということにもしないことにしよう、まあ性欲、たった一人の性欲で、バンドは解散した。それでも、ダラダラと集まりはあった。被害者の女性は、このバンドの ボールペン奏者である。ところでボールペン奏者とは何か。想像の通り、ボールペンをカチカチして音楽的律動を刻む者のことを指す。中学時代によくおれが苛ついていた、あの音だ。あの頃は神経過敏だったんだ。ごめんね、みんな。にしても、ボールペン奏なるものがあるのか、あってよいのか。 あってはならない存在だというのに。まったくふざけたもんだ、この二十一世紀に。とはいえ、周知の通りボールペン奏はそれなりにJinmenusagiの如きフロウとは相性が良い。彼女はバカどもの集まりを抜けて行き場がなくなった。そんな時、李有が彼女を口説いた。もちろんJinmenusagiの如きフロウで。およそ十年もの間、ボールペン奏をしてきて良かった。意味があった。すべてはこの日のためだったのだわ、神様ありがとう、と、彼女は天啓だとおもったらしい。李有が彼女の居場所となったのだ。馬鹿な奴らだ。まったく。

李有は、大学を留年し続けていたらしく、除籍された。それでも李有は、元の何もしない生活を続けた。熾烈な受験戦争をくぐり抜けて、やっとで手にしたものをいとも簡単に捨てる。捨てることへの快感を感じているようだった。李有は実家に勘当され、生活ができなくなって彼女の家に転がり込んでいた。その日は、いつものように雨が降っていた。

「おれは贅沢と突然が好きなんだ」

と突然、李有。

「そんなことをしていては生きていけないよ」

「いいんだ、死ぬから」

ああ、とおれは呻いた。どうしようもない。

「都会のスピードに騙されんなよ。遊佐ではここの五分の一の速さで時が流れているが、生活の濃さはここの五倍だし、人々は幸福に満ちている」

李有は遠くを見つめた。

「そうンゴねぇ」

「おれは虚しいよ。おれたちは本当に意味がないんだ。 犬はすぐに捕まるし、猫は死んでしまう」

そう言うと、李有は海に飛び込んだ。自殺したかと思った。 燥ぎ過ぎてる夏の子供だ。

歳をとるにつれて時間の流れが速くなっている、というのは嘘に決まっている。大人になるにつれて資本主義社会の速さに自分の身体を合わせていくのだ。段々とわれわれのBPMは上昇して行く。つまり、一億総EDM社会。テレビをつけると、DJ ABEが国民を踊らせている。フロアはパンパンで息が詰まりそうだ。だが国民は嬉嬉として跳ね続ける。頭上で回るミラーボール。音楽に合わせて揺らめく君の髪が…なんて言ってるうちにおまえの一生は終わる。国民はBPM4000の音の中で休むことなく働き続けるのだ。4000連勤だ。過労死。クラブには煙草の煙が充満している。副流煙で多くの同志たちは死ぬだろう。なんたる地獄。おれは一応減速しとく。EDMよりもオールドスクールのヒップホップがいいね、やっぱり。と言ってテレビを消した。で、海に捨てた。気をつけろ。悪の手はいつも油断したところをつけ狙う。都会のスピードがおれたちを急かす。火をつけろ。本質を見つけろ。

「場末のバカを知っているか」

李有はいつも意味不明な話を突然し始める。

「知らない」

「街の外れにバカがいるらしいんだ。そいつはどうしようもないくらいにバカなんだが、ただのバカではないらしい。なんでも聖なるバカだとか」

適当に相槌でも打っとこ。めんどくせ。と思いつつ、

「聖なるバカ?」

「なんでも、そいつは千年前から生きている。というのも場末のバカは交代するんだ。憑依みたいに。場末のバカは受け継がれるんだ。前の場末のバカから次の場末のバカへ、場末のバカ性は移動し、発現する。」

「いいえ」

「場末のバカは世間の時間とズレたところにいる。場末のバカのスピードは遅いが、遅さが速さと成り得る倒錯の中にいるんだ」 

ジメジメと蒸し暑い梅雨の日だった。どこからか中国語の会話が聞こえる。観光客の多い、アジアの、日本の夏だ。オリンピックみたいなやつがあるらしい。よくは知らないが。コンビニを見つけて、涼むために入る。心配事は何も無いが、イライラしていた。なんなんだまったく。 海老マヨとおかかのおにぎりとカップラーメンをカゴに入れ、戻した。こんなもの食えるか。──だいたいコンビニの食い物は合成着色料だの添加物にまみれていて食えやしない。サラダなんか消毒まみれだぜ。虐殺だよこんなの。おれたちは生きてるんじゃない、生かされているんだ。それもゆっくりと殺されながら、と、雨で濡れた吸えやしないシケモクを口にしながら李有がフガフガ言っていたのを思い出す。道端に落ちているシケモクの方が汚いし危険なんじゃないのか。「当グループでは保存料・着色料を使用しておらず、安心安全にこだわっています。」嘘つけ阿呆が。味覚が破壊され、泣きながら弁当を食べた日々を思いだした。なんだったんだろうねあれ。おれ、アホだよね。泣いちゃってさ。だせー。当時のおれは無計画無目的無秩序を極めていた。高校を卒業して、無職のまま上京した。紙とペンがあれば詩は書ける。マイクはなくても即興詩はできる。遊んで詩を書き溜め即興詩をして生きていこう、漠然とした考えがあった。住む場所も金も無かった。昼間は李有の大学の講義に潜り込み、意味の無い知識を詩のネタとして詰め込んでいた。夜は公園に屯している悪漢どもとつるみ、詩を音楽的律動に合わせて披露、即興詩人のごとき戯れを行っていた。即興詩が上手くいくと先輩がコンビニ弁当を奢ってくれる。それを泣きながら食べたのだった。美味しくて泣いちゃった、あたし。すると、初老の店員はひどくゆっくりと小銭を数え、おにぎりとカップラーメンを袋に詰め、何も言わず真顔で頭を下げた、のを思い出しておれはまた発狂しそうになる。気づけばさっきカゴに入れ、戻したものを買っていた。手が痛い。カップラーメンにお湯を入れる時、お湯が左手全体にかかった。火傷している。そんなことにも気づかないくらい怒っていたし、のめり込んでいた。狂っている。コンビニが、携帯ショップが、ブックオフが憎い。どれも均質化された場所だ。吐き気がする。人間性の欠如、搾取、殺戮、資本主義の歯車。──おれたちは糞袋でしかないんだ。何も意味が無い。いつだったか、李有の大学の教授が講義中に言い出したのを思い出す。糞袋は糞袋の上に糞袋を造り、糞袋の下に糞袋を造った。糞袋は糞を喰らい、糞を袋の中に溜め、運ぶ。そして排泄する。ある日は大田区の寺で、ある日は新都心のロイホで、ある日は南町田グランベリーパークで。ある糞袋が自分より下の階級の糞袋を怒っている。糞袋が糞を提供するのが遅れたからだ。まるで喜劇だ。ある糞袋は笑っている。紙が手に入ったからだ。ケツを拭く紙ではない、糞袋をこき使うための、また糞を買うための札束だ。ある糞袋は紙を持っていない。いわゆる貧乏である。貧乏では糞を喰らうことも袋を糞で満たすことも糞を運搬することもできない。そのような糞袋は何もできずに身を投げ死んで糞と化す、もしくは糞袋を、つまり身を、売る。紙を多く持つ糞袋がそれを買うのである。またある糞袋は運命の糞袋なる糞袋を見つける。糞袋と糞袋が出逢い、愛し合い、新しい糞袋をつくる。子供糞袋は成長し、糞袋と出逢いまた新たな糞袋が。糞を運ぶわれら、徒労、その繰り返しのわたしたちの人生。意味がないね。そんなことを考えながら気づけば路上でひとりニヤニヤしていた。変態だ、おれ。おれはさらなる空想の中へと入っていく。やがて糞袋たちを作った神は死に、糞袋たちは戦争を始める。糞袋は殺し合い、叫び、死ぬ。すべての糞袋が弾け、散り、山の上から大量の糞が、糞袋が行進して海へ流れ込む。糞のパレード。糞パレ。もはや海は生物が住めるような状態ではない。最悪だ。そして、糞水が海岸に波をうちつける。太陽がそれを乾かし、そこから新たな人類が、いや、かつての人類に匹敵する何かが現れる。糞人間だ。彼らはまず何を始めるか。決まっている。トライアスロンだ。オリンピックだ。そんなことが起こったら最高だ。痛快だ。マジウケる。小池も、安部も、もはや誰も想像しなかった展開になれ、この野郎。ムカつくぜ。

その夜、李有は自殺した。なんとなくそんな気がして夜、海に行ってみたが、李有はいなかった。

李有の自殺した理由はわからなかった。というより、そんなものは知りたくもない。他人がどんな理由でどのようにして死んだのか、わかったところでなんになるというのだろうか。死んだという事実は変わらない。疾病を生き延びたあの医師のように強く生きる、そうはいかない。変わっていく周りの景色に、ただ口を開けてぼーっとしていることがよくある。というのはおれのことだが、これは多くの人にも当てはまると思う。光陰矢の如し、歳月人を待たず、などと昔の馬鹿どもは当たり前のことを小難しくしてよく言ったものだが、資本主義社会というものはそんな程度のものではない。人間自らが時を加速させているのだ。スチャダラパーは、『ヒマの過ごし方』の中で、「ヒマ」の重要性について述べている。本来ヒトはヒマであり、ヒマがなくなること、ヒマを受け入れ得ないことはヒトにとって能力の減退である、と。成るほど、至極最なことである。ところで、「疑」という字には「ヒマ」が隠されている。つまり「疑う」という行為は「ヒマ」がなければできないのである。疑う者は権力にとって邪魔者である。だから権力者は次第に時を加速させた。われわれのヒマを、考える時間を奪うために。 

朝が来て、墜汰は姿を消していた。床に散らばった本で身動きが取れなくなったルンバ、崩れた積読の塔、それと護身用スタンガン。どうやらおれは彼女に敗北したようだった。おれの思い出し得る昨晩の記憶は、彼女と猫のことで口論したことだけだった。彼女はいつもおれと喧嘩するときは暴力的な手段を使う。彼女はいつもおれを論破するのだが、言うことを聞かないと、暴力に走る。昨晩何があったのかを思い出すのは困難だったが、結果は目に見えていた。猫は捨てられた。李有が死に、二人は同棲を始めた。二週間ほど経っただろうか。自分の家の家賃が払えなかった気がする、頭が痛い。正気じゃなかったんだと思う。右のように、ただ口を開けてぼーっとしていたのだろうか。おれはなぜか李有として彼女の家に転がり込んでいた。彼女も李有が死んだショックで狂っているみたいだ。彼女は就職していて、ある程度の稼ぎはあったが、おれは資本主義に対する細やかな抵抗と称して、また李有がそうしていたように、乞食と日雇いのバイトの、わずかな稼ぎしかなかった。彼女はおれを李有と誤認していたので、おれがヒモであり続けることは彼女も許容していたが、家での権力は財力的にも身体的にも、彼女の方が上だった。李有はこいつのせいで悩み、自死を選んだのだろうか。李有は弱かった。集団に馴染めず、孤独だったのだから。彼女にも服従するしかなかったのだろう。

その日もおれはリリックを書いていたが、どこかいつもとは違った。

──墜汰!捨てられてしまった。あいつはおれであり、おれの生きがいそのものであるのに!

おれは半身を引きちぎられたような気でいながら、怒りに身を焼かれていた。昨晩の口論の内容を思い出そうとしながら、考えを巡らした。なんとしてでも墜汰を取り戻さねばならぬ。昨夜、おれは猫を拾った。墜汰と名付け、連れて帰った。自分自身が墜落しそうだったので。犬派で、実用主義の過激派である彼女は、徹底的に猫の、猫を飼う事の意味の無さを論理的に饒舌にまくし立て批判したが、なんとかおれの、おれたちの勝利に終わった。──あの女がいなければおれは生きてはいけないが、本当の意味での「生きる」糧となっているのは墜汰、あいつだ!

夜になり、彼女が帰ってきた。その姿を見るや、昨晩の口論の核心を思い出した。

「私、妊娠してるの。だから猫はもう追い出すことにするわ。ねえ、いいでしょう?仕方がないじゃん。」

──おれの子供!?そしてそれによって犠牲になる猫、それはおれそのものだ!

おれはいてもたってもいられなくなって、彼女には目もくれずアパートを飛び出した。当然行くあてはないが、アパートから遠ざかるように歩き続けた。事実、子供の父親は李有だった。身重の彼女を残して自殺しやがったクズ野郎だ!

──彼女の腹の中にいるおれの子供は、おれがこの目で実際に存在を見たわけではないし、おれと身体的なつながりもない!しかも、そもそも猫がおれの子供や妊婦になんの悪影響を与えるって言うんだ?あの女は論理だの根拠だの言っているが、おれを感情で支配しようとしやがる! 

雨が降っている。夕方から深夜にかけて土砂降りになるという予報は正しかった。午後九時。コンバースはすでに靴の意味をなしていなかった。雨水の染み込んだ布だ。もはや雑巾だ、こんなもの。雑巾を履いてレース。みんなはローラースケート。置いてけぼりの、寂しいわたしの人生。気づけばどこかで猫が小さく鳴いている。墜汰を拾った昨日もこんな夜だった。墜汰は今にも死にそうで、小さく鳴いていた。墜汰は、盲目だった。両目を怪我し、捨てられていた。それが、また捨てられたのだ。この雨の中、目癈いられ、また雨音で耳も癈いられている。墜汰は今どんな思いでいるのだろうか。消費された。使い捨ての、一時的な愛玩動物、猫として。人間と同じ生き物ではなく、猫という愛玩動物、つまりモノ、おもちゃに過ぎない。必要ないモノ。糞袋と同じだ。猫は人間よりも小さな糞袋だ。糞袋社会、糞効率主義社会においては標準的な糞袋に劣る。いつでもスケープゴートは必要だし、多くの犠牲によってこの社会は成り立っているのかもしれない。それに、ほとんどの場合、犠牲者は自分が犠牲であることに気づいていない。よくある話だ。幾人もの弱者が死に、勝ち残った者が生き残る。暴力的。感情を持たず、ただ床に散らばるゴミを吸うルンバ。墜汰の嫌いなもの。

今、鳴いているのは墜汰だろうか、とおれは思った。

──おれのねこは土砂降りの中、今にも死にそうで小さく鳴いているのに、部屋の中無機物のルンバは生命力に溢れ、わんわんと音を立てて、駆け回っているのだ!

彼女によって整頓された部屋をルンバが駆け回っている様子をおれは思い浮かべ、陰鬱な気分に陥った。いつも部屋を片付けるのは彼女で、散らかすのはおれだ。それに昨日、愛すべき我が同志が加わり、即座に流刑に処された。部屋は、彼女の名義で借りていた。衣食住以外の物で、部屋に何か物を置くのは、彼女の性に合わなかった。だからルンバが走り回れる空間があった。愛情ってのは一体なんなんだ。おれには生きることと死ぬことしか理解できない。生きているものが死に、生命を持たないものが生きる。富めるものが富み、弱者は死んでいけというのか。許せない!

午前二時、通りには人は見当たらない。降り続く雨の中を訳も分からず歩くことしかできなかった。どこにも留まってはおれまい。遠くの灯りの方へ駆けて行く。最早ここがどこであるかもわからない。ひどく疲れていた。限界。雨宿りできる一角を見つけ、入る。そこには、場末のバカがいた。場末のバカのことは聞いた限りではあるが、一目見て場末のバカとわかった。場末のバカは猫を抱いていた。それは、墜汰だった。

「雨宿りか? どうしたこんな時間に」

と、場末のバカはおれには尋ねたが、無視した。おまえこそなんなんだよ。

「袋の鼠という言葉があるだろ?猫は鼠を捕まえるから、猫に捕まえられた鼠は糞袋の鼠ってわけだ。でもこいつは目が悪いらしいから鼠を捕らえることなんてできやしないな。HAHAHA。車にでも轢かれてすぐに死ぬだろうよ。」

李有の言っていた、場末のバカは実在した!てか、そんなことより殺意が、渋谷を爆破する意思に似た強い感情が湧いた。おれは殺意を込め場末のバカを睨みつけた。ここで、場末のバカを初めて直視したおれは違和感を覚えた。顔は浮腫み死んだ鶏のような色、汚い髭面でニタニタ笑っているが、それは李有だった。──李有!生きていたのか!その瞬間、首筋に電流が走った。振り向くと、スタンガンを持った彼女。暗闇。

目が覚めると僕は変わり果てた姿になっていた。

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