見出し画像

援助者自身のトラウマのケアを

トラウマというと、事件、事故、災害などを思い浮かべがちかもしれませんが、日常の中にもトラウマは溢れています。

トラウマは、擦り傷ではなく刺し傷に例えられます。

擦り傷であれば自然治癒力によって、かさぶたになり、いずれは治ります。刺し傷の場合はなかなかそうはいきません。喉に刺さった魚の骨なら、まずは骨を抜く必要があります。体にトゲが刺さった場合もそうでしょう。ガラスが刺されば、抜いて縫合も必要です。

刺し傷のようなトラウマは誰しも抱えているものだと思います。(骨なのか、枝なのか、ガラスなのか、傷の深さはどのくらいなのかは個人差はあるにせよ)

皆の前で恥をかいた小学5年生の時の学級会のあの場面・・・
とか、
高2の頃、ふと母親が見せた冬の薄暗い道での冷たい表情・・・

などといった、思い出したくもない、名前のつけようもない具体的な情景の記憶は、誰にでもあるだろうと思います(全くない人は、おそらく援助の仕事に興味を持ってはいないでしょう)。

人が発達してくる中で体験してしまう避けられないトラウマです。その人に固有の耐え難い苦痛の一場面です。

その時すぐに気持ちを受け止めてもらい、トゲやガラスが抜ければ良いのですが、孤立無援で刺さりっ放しになることも現実には当然あります。

刺さった状態は苦痛であり不快なものです。常に不快感を持ちながら、人は生きていきたくない生き物です。

擦り傷ではなく刺し傷なので、自然治癒もなかなか期待できません。そこで、人の体はその心の痛みや不快感を冷凍保存して、クーラーボックスに詰めて心の物置き部屋に押し込めるという対処(解離)をする機能を備えています。

例えばこんなふうにして、人はとりいそぎ、応急処置として心を安定させるようにし今を生き続けます。

それで安定させることができ、日々平穏に生きられていれば、それはそれで問題はないのでしょう。

ただ、そんな記憶が何かのきっかけで、ありありと思い出されてしまう、まさにいま起きているように感じる(フラッシュバック)ことがあります。

対人援助者(仕事だけでなく子育ても)になると、フラッシュバックは頻繁に起きやすくなるように思います。

感情を使う仕事・活動だからです。被援助者の方との関わりによって、援助者のトラウマ記憶が賦活されやすくなります。

例えば被援助者の方が「人前で恥をかいてしまった」という悩みを、援助者であるあなたに打ち明けたとします。

あなたは、学級会での恥の記憶を冷凍保存しています。
あなたにとって恥の体験はトラウマとなっています。

するとあなたは、被援助者の方の悩みをしっかり聞くことが難しくなるはずです。

悩みを聞き共感するには、自分自身の類似体験を想起して、自分が体験したかのように相手の気持ちを想像するプロセスが必要です。

そのためにはクーラーボックスを物置から引っ張り出してきて、記憶を解凍して、あなた自身の恥を味わう必要が出てきてしまいます。

あなたにとって「恥」は触れにくい感情のため、内心そのようなことはしたくありません。刺し傷の痛みはもう味わいたくありません。

そこで被援助者の方のお話を「さらっと聞き流してしまう」とか、「通り一遍のアドバイスをして済ませてしまう」とか、「そんなこと気にし過ぎだ」と責めてしまうとか、不自然な対応が起きてしまいます。

あるいは、誠実に向き合おうとして、無理をして解凍してしまい、当時の恥の感覚に圧倒されて、心のバランスが崩れバーンアウトしてしまう可能性もあります。

すると被援助者の方も、援助者のあなたに助けを求めたのに「聞いてもらえなかった」「助けてもらえなかった」と思ってしまうでしょう。

特に被援助者の方にとって「恥をかくこと」がその方のトラウマにも関連している場合、この訴えはその方にとって切実なものだったはずです。

「あなたに勇気を出して相談したのに、邪険にされた。恥をかかされた」(被援助者にとってのトラウマの再演)と、他の援助者に訴えるかもしれません。人知れずあなたの前を去っていくかもしれません。

そのことに対して、あなたも援助者として恥をかかされたように感じるかもしれません。

援助者仲間みんながいる前で、他の援助者に訴えられてしまったことに対して、恥をかいた気持ちになってしまうかもしれません。

あるいは、去られてしまうことで「自分には援助の力が足りないのか」と恥ずかしくなるかもしれません。

それはあたかも、クラスの皆の前で恥ずかしい思いをしたかつての学級会の場面のように感じられるかもしれません。

あなたのトラウマ記憶と同じようなことが、いまここに再現されてしまうのです。(援助者自身のトラウマの再演)

このようなことは、よく観察していくと我々の日常の支援場面で、実は頻繁に起きていることです。

しかし、自身のトラウマに気づくことは、だれにとっても容易なことではありません。第三者が必要です。

もし、ここであなたが「恥の感情は自分のトラウマである」と気づいていればどうでしょう。

気づいていれば、自分には手に負えない問題だと思い、慎重になる余地があります。

「わたしよりも、支援員の〇〇さんの方が、この話題は力になれると思う」と他の援助者につなぐことができます。

そうすることで被援助者の方、あなた、双方のトラウマの再演を事前に防げるかもしれません。

あなたがトラウマと格闘している最中であれば、トラウマの再演になっていることにどこかの段階で気づき、被援助者との関係を修復しようと動けるかもしれません。

「いまあなたと私の間に起きていることは、トラウマの再演のように思える」と伝え(実際はもっと丁寧に、具体的に説明しますが)、これからの対応を被援助者の方に提案できる余地があるかもしれません。

援助者が援助関係を見直し、穴が開いていれば修復を試み(「失敗を素直に謝る」という言い方でもいいかもしれません)、あきらめずに関係をつなごうとしている姿を見ることは、被援助者にとって、大きなサポート体験になると考えられます。


このように、援助者としての弱点、触れられない領域、いわばアンタッチャブルゾーンを、どの援助者も持っています。(持っていないという方は、辛い記憶を冷凍保存しているだけかもしれません。人は誰しも、トラウマを負いながら生きていくものだと思います)

援助者自身がカウンセリングを受けることで、そのゾーンをまずは認識する、そして少しでも小さくし、触れられる、タッチャブルなものにしていくことが大切だと考えています。

カウンセラーの世界で言うと、スーパービジョンという、指導を受ける場があります。ここで、アンタッチャブルゾーンの存在を指摘してもらうことはできます。

そのゾーンにまつわるトラウマをケアするとなると、スーパービジョンの場では難しくなります。目的が違うからです。

スーパービジョンでスーパーバイジー(指導を受ける人)のトラウマまで踏み込んでしまうと、トラウマの再演が起きたりして、スーパーバイズ場面が混乱するように思います。

(ハラスメント的なスーパービジョンもあると聞いたことがありますが、もしかしたら、この切り分け、境界線があいまいなゆえに起きている問題なのかもしれません)

カウンセラー自身のトラウマケアという目的で、カウンセラー自身が自分のカウンセリングを受ける必要が出てきます。

このようにして、自身のトラウマケアとスーパービジョンの両輪を回し続けることは、対人援助者として、誠実なあり方なのではないかと考えています。

しかし、援助者と言えども、トラウマを掘り起こすのは大変な苦痛を伴うことです。

ゆえに、多くの援助者は、自身の課題の存在に薄々は気づきながらも、その手当てには踏み出せずにいます。

自身を援助者の立場に置くことで、かつての自身の傷が癒えるような錯覚に陥ります。

これは、まるでアルコールや、甘いお菓子、苦痛を取る痛み止めのような作用をもたらすでしょう。

しかし、少しずつでも、自身の傷の手当てに踏み切る勇気がもてたなら、違った人生が拓けてくるように思います。

この勇気の旅のお供として、当ルームがお役に立てるとうれしく思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?