菫色の実験室vol.5|河井いづみ|暁の発光
一粒の結晶をポケットに入れて、廊下に戻りました。
毎年、実験室を訪れるたび、各研究員たちがそれぞれの世界を極めようとする静かなる熱情、対象への誠実さ、成果の背景にある精巧な技の鍛錬などに触れ、厳粛な気持ちになります。
実験日誌の蒐集と管理が私の仕事ですが、同時に、研究員たちの背景にある、目には見えない豊かな色彩を伝えることができればと、常に心に留めています。
スミレの香りが夜に触れて、青々しさをいっそう濃くする扉の前にきました。
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入室すると、外の森よりもいっそう植物の存在を感じる匂いに包まれました。新しい土が掘り起こされた時の湿った匂い、朝露が花びらに触れた時のかすかに甘さのある新しい匂い、遠くから風が運んでくる軽やかなスミレと間近にある濃いスミレの香りが、交わらずに並行にたゆたう神秘的な香りの遊戯——暗闇の中でしばらくの間、香りが奏でる音階に身をゆだねました。
やがて、部屋のあちこちに明かりが灯り始め、夜が明けていくようにだんだんと明るくなっていったその正面に、凛と立つひときわ大きなスミレ花が現れました。
新種のスミレ花発見か——
大いなる空と大地から光と養分を吸い込み、樹齢を重ねた樹木のごとく遥かなる時を紡いできた威厳と、いま誕生したばかりの無垢なる新鮮が同時に存在する詩情は、プラントハンターが最も価値が高いと認めるもの。
古い時代の叙事詩を讃えながら、現代の神話が鮮やかに生まれようとする実験室の光景——それは、生命へのオード。研究員の比類なき感性のモダニティは、新しいスミレの香りを馥郁と世に放つことでしょう。
明るかった室内が急に薄暗くなり、スミレ花の香りも眠りにつくように控えめになってきたようです。退出時間が近づき、気持ちも帰路へと向かった時、角の棚にクリップで留められたもう一枚の実験日誌を見つけました。
アメシスト、アクアマリン、ガーネット、サファイア——そこには原石が採集された記録が綴られていました。棚を開けると細い仕切りにシャーレが収納されていたので、いくつかを取り出し、テーブルに並べてみました。
シャーレに納められた、ちいさな紙の宝石。かすかな明かりに照らされて、煌めいています。
「観察」という知性——この実験室で出会ったスミレ花と紙の宝石から、研究員の美学が浮かび上がりました。
対象を誠実に、精巧に眼差してゆく理性、そこから美を採集し、見極め、最適な支持体に定着させる卓越の技巧——ストイックに繰り返される、果てしない美をめぐる運動は、決して私たちの目に触れることはありません。
私たちに届けられるのは、ただ一枚、一片、一篇の美。
潔く届けられたそれらの美を、今度は私たちが眼差す番です。受け取った美を、研究員たちが賭した同じ愛情を持って紐解き、見つめていきたいものです。
河井いづみ | イラストレーター・アーティスト →HP
鉛筆画やリトグラフによる独自のテクスチュアを生かした、躍動と静けさが同居する世界観が魅力。2003年より3年間フランス・パリのアーティストインレジデンス等で活動。現在東京を拠点に、書籍装画、広告、ファッションやパッケージのイラストやデザインなど、幅広い分野で仕事をする他、国内外での個展やアートフェア参加など展示も多数行う。
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作品名|暁の発光(額つき)
リトグラフ・ファブリアーノロサスピーナ紙
*エディション7の内6枚を販売
作品サイズ|32.8cm×23.9cm
額込みサイズ|52.3cm×40.8cm
制作年|2020年(新作)
ちいさく可憐なスミレ花が、河井さまのモダンな感性により、荘厳な雰囲気さえ漂う凛としたリトグラフ作品として届けられました。現代の植物画と呼ぶにふさわしい、堂々たる大作です。
花びらや葉の一本一本の筋まで写実的に描かれたスミレ花と、翻って、グラフィカルに図案化された大地と光——この大胆な二面性が軽やかに調和し、結果、静謐な印象を生み出す作風こそ、河井さまのモダニティの所以です。
鮮やかな花びらの菫色と葉のグリーンも清々しい一枚には、大地の色を反映させた、繊細なフランス額装が施されています。
現代的に香るスミレ花の一作は、お部屋に新しい風を運んでくることでしょう。
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作品名|暁の発光(シートのみ)
リトグラフ・ファブリアーノロサスピーナ紙
*エディション7の内6枚を販売
作品(シート)サイズ|35.5cm×31cm
制作年|2020年(新作)
河井さまのモダンな感性により生み出された、現代の植物画たるリトグラフ作品は、シートのみの販売も行っております。
ご自身のお部屋の雰囲気や好みに合わせて、額やマットを選ぶ楽しみは版画作品ならでは。作品の印象をガラリと変化させる額装の楽しみを味わってみてはいかがでしょう?
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作品名|時間の美シリーズ(11種)
リトグラフに手彩色(エディション8の内、各限定数販売)・いづみ紙・シャーレ入り
作品サイズ|7cm×7cm
シャーレサイズ|直径12cm/高さ約2cm
制作年|2018年
*全作品の写真も含めた各作品の詳細はオンライン・ショップに掲載しています
掌にのる小さな紙の宝石、原石を描いた「時間の美」シリーズは、リトグラフに手彩を施した鮮やかな色味も印象的な作品です。
贅沢なシャーレ入り、標本風に眺める展示方法がとても瀟洒です。そのまま飾っても、時にはシャーレの蓋を開けて、眺めてみるのも楽しい。
複数点組み合わせて飾るのもおすすめです。
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