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虚構という水面

お気楽KING

VTuberが嫌い。媚びが見え見えでなんとなく苦手だし、肉体を持った人間がキャラクターという皮を被るのは(しかもそのキャラクターを時に自分の名誉のために難なく脱ぎ捨ててみせるのは)2次元への冒涜だと思う。でもなんとなくずっとピーナッツくんだけは追っている。究極の求心力は抵抗感の先にあるのだろう。彼が作る音楽が好き。児戯性とニヒリズムとインモラルとかっこよさの調和が心地よい生きた音楽だ。「ピーナッツくん」という5歳を騙るキャラクターに斜に構えているところがあるのが好きだし、世の中を少なからず嫌っている事実が好きだし、ノスタルジックな言葉選びをするのも好きだし、女性と絡む音楽を作るのも好き。自分の見せ方を無意識に選択できている。ずるいひとだ。今のぼんやりとした夢は彼のライブに行くこと。ツアーとかやってくれないかなあ。「なんとなく好き」に勝る好意はないと思う。ずるいなあ。


メンヘラのための人生演劇

自衛のための無関心と無期待って大事だと思う。今日裏切られても傷つかないための予防線を張って人間関係に挑んでる気がする。だってそれだけ自分が大事だし裏切られたら信じられないくらい傷つくほど大事な人ばっかだから。人付き合いって一つの舞台だと思う。演目によって配役を変えて違うキャラクターを演じる必要がある。そんなこときっとみんな分かりきってて、そんなこときっとみんな考えていやしないんだろうけど。人間関係って考えるほど難しい。全部なくなっちゃえばうすぅくゆらめくシャボンみたいに夢のようでかわいいのに。かわいくないからかわいくなるために生きるのだ。


君の尾ひれの方がきれいだった

アートアクアリウムに行った。暗い空間に置かれた色々な形の水槽に無数の金魚が飼われていて怖かった。好きな女の子がそのあいだを泳ぐように進んでいってきれいだと思った。ジブリの話をしていた。ポニョの話。リサは母である前に女である、らしい。子供を産んだら女は母親って生き物になるとでも思ってんの?どっちがアダルトベイビ~。
永遠に少女でいるためにはどうしたらいいんだろう。台風の日に旅行を計画していた母親が「自分がいないところで子供が困ると嫌だから」とそれをキャンセルしたことがとってもうれしかった。母にとって私は大事な子供で、きっと生きてていいんだなって思った。否、これも、洗脳?願わくば、魚になりたい。嘘。早く死にたいけど。黒染めしてもうつくしい髪をあの子が鱗みたいにひからせるから、銀座の一等地に天国はなくとも海はなくとも生きててよかったと思った。


魂の中の永遠の海 

川の近くで育ったからか、水辺が好き。広大な自然を目の当たりにすると自分の矮小さに気付けるし、いつでも死んでいいんだなあ(だからこそまだ生きたい)って思える。破壊と再生のメタファーなのも頷ける。精神が死に近づくと海に行きたくなる。私の生存戦略は海辺におちている。今年は特にたくさん水辺に連れて行って貰った。最近は神奈川の一色海岸に。西陽と雲と地平線に並ぶ生活の光のコントラストが筆舌を尽くしがたいほどきれいで、人の生活や生存がとってもあたたかくて愛しく思えた。人が生きているってほんとうに怖くてほんとうに尊い。社会は、無数の生活は、無数の感情は、無数の人となりは、愛は、人生は、すべてそれらしい機構で、その一つ一つが少なからず刃物のような断面を持っているから怖くてそれに触れるためにタオルケットみたいな建前や愛想が必要で、他人にとっての私もそれは変わらなくて、いつかそんな事実を躊躇なく抱きしめられたらどんなに幸せだろう。人を愛したいって最近はずっと思っている。私にはないあの言葉とか。刹那を連ねて人間は人間になるんだから、将来がある関係なんて嫌だよ。きれいな刹那で殺してほしい。
最高にエモい風景だったから今すぐ死にたかったけど海水がしょっぱくて目が覚めた。淡水の海を探しています。向日葵が映えないから6月に死にたい。早く死にたい。さいごに見る光景は海がいいなあ。墓に入りたくないので海に撒いてください。一人になりたいので海に撒いてください。わたしみはきっとひとごみの中で育って、精神は魂の中の永遠の海に、さいごのさいごでわたしみを愛せるようになったその瞬間身体もやっと海に辿り着く。はやくうみにおいでよ。


少女のままで死ぬ

ごしゃいちゃんが死んだ。ドンキとかロフトとかアットコスメとか。化粧品コーナーを覗けばきっといまもきらきら微笑むゆめみたいにかわいい女の子の遺影。自撮りも加工も乗りこなす鏡の国のアリス。反転世界の女の子。素敵な人だなあって思ってた。
大森靖子が無いと生きられないってわかる奴だけ信用できるけど仲良くは出来ない。人には人の地獄、って知りたくなくね?私の地獄はかわいいって呪いだ。自分の顔が嫌いで、見られたくもないし、化粧してやっと鏡を直視できるし、でも変なとこないか気になって何もかも手につかなくなったり他人の目線を内部化してバッド入ったり街でかわいい子を見かけて病んだり他人から見た普通であろうものを提供して振舞おうとするたびしんどさと生きづらさは増してって死にたくなるから音楽に逃げる。女の子って、かわいいって地獄だ。女の子である自分は好きだけどこの生きづらさも愛しいけど死にたみを抑えきれなくて破滅願望が募る。持て余してどうしようもない鬱屈とした思いを、彼女は自分磨きにあてられるパワーがあったんだと思う。きっと優しくて弱いから誰より強くてかわいいに真剣で、その生き方が好きだった。大森靖子を聴くごしゃいちゃんが画面の先で努めて明るく振舞っているそのしぐさがなんていうか「リアル」で、ああ私だけじゃないよねって勝手に親近感を抱いていた。がんばろうって思えた。でも死んじゃった。先天性の奇形の整形のために入院する手続きをしに行った日のニュースだった。普通の人に近づけるようにって、人前で顔を隠さずに笑えるようになりたいって、カメラが怖くなくなりたいって医者に話した日のことだった。全身麻酔で死ぬかもってリスクを説明されて、最近死にたかったはずなのに焦ってしまってまだ死にたくないんだなって気付けた日のことだった。ごしゃいちゃん、私、まださ、生きたいよ。でもボロボロの心に銀紙を纏って夜空を瞬いてくれる星みたいなあなたはもういなくって、搾取と悪意だけがいっそう色濃く一等星みたいに。どうしたらいいんだろう。かわいい子が歌う音楽。かわいい子が纏う洋服。かわいい子が映るチェキ。かわいい子がかわいい子がかわいい子がかわいい子がかわいい子が。特別。とくべつ。普通。それ以下。顔面コンプの方舟で顔面至上主義な大海原を旅しなきゃいけないのに、船首の女神はかわいいまんま死んでしまった。


大森靖子に会いたい


愛の実験

ジョジョの舞台キャストが出たぞ!!ジョジョーーーッッッ!!!オタクは大喜びです(オタク大喜びの舞)
ジョジョ一部から学んだことは、コミュニケーションにおける「誠実さ」だ。ありのままの自分を表現できる素直さも自他へ向けた誠実さだと思うし、他人に見られるための自分を用意して演じきってしまう力も自他への誠実さだと思う。方法は違えどどちらも自分の人生に誠心誠意向き合っていて、それを貫き通すのだから他者に対しても清廉潔白だ。目眩がするほど光ってしまえば星も電子も関係なく、惚れ惚れするしかないギラギラ。
対人コミュニケーションにおけるこの2通りは、成長段階での愛の有無にあると思う。愛されたから自分を認めることができる。愛されなかったから自分を認めることができない。普通を真似して虚飾するしかないその切なさややるせなさや絶望や怒りがなんともいじらしくて愛おしい。ディオ・ブランドーの、過剰なまでの自己愛や普通の人間を装おうとする弱さ、つまり「人間:ディオ・ブランドー」にしかない人間臭さが好きで好きでたまらない。親が自分を愛さないなら自分が自分を愛するしかないって思った夜が彼にもあったんだろう。彼の自己愛は決して自己肯定感ではないところが好き。自分が自分を愛していないと、自分自身を信じていないとすぐに崩れてしまうような砂上の楼閣が彼の精神テンションの基盤にあったように思う。ジョナサンには愛される才能があってディオには愛する才能があったって信じてる。正反対な2人はそれでも真っ暗な夜空に優しく瞬く星で、だからこんなにも人の心を掴んで離さないのだろう。
子供は絶対に愛されないといけない。でもそれが子供の愛の才能を奪うかもしれない。教育ってムズいね。宮野真守のズキュゥゥン!楽しみすぎ。

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