一億総正義時代、対策は

応援してくれる人や近しい考え方の人たちに向けて意見発信することの方が、SNSで不特定多数に向けて発言するよりも勇気がいることなのかもしれないなあ だからこそ車椅子問題が加速するのかなあと思われた

2024/3/19

一億「総発信」時代になっている。世間に情報があふれ、注目を浴びるほど(経済的・認知的な)利益が得られてしまうようになり、そのことが選挙演説の妨害だとか、Xのインプレゾンビだとか、迷惑系YouTuberみたいなことも含めて、大変な歪みを生んでしまっている時代だなあと思う。

各自の「正義」に基づく対立も(特にネットの世界では)やたらと増えた印象がある。『不適切にもほどがある!』というタイトルのドラマがヒットするような大コンプライアンス時代に、それぞれが自分なりの正義感を持って戦いあうようになってしまった。炎上という言葉があまりに身近になった。

「車いすインフルエンサー」の女性が「シアタス調布」の「グランシアター」で映画を鑑賞した際にトラブルがあったことをXで公表していた。女性は「グランシアター」の大きなソファのような「プレミアムシート」で映画を鑑賞。終了後に「支配人みたいな人」から、手伝うことができるスタッフも時間的な制限があると伝えられ、他の劇場での鑑賞を勧められたという。

車いす使用者に別の映画館勧めたか イオンシネマ「不適切な対応」謝罪 ネットは賛否「はっきりさせて」/サブカル系/芸能/デイリースポーツ online (daily.co.jp)

冒頭のようなことを考えたちょうど3月、大論争となっていたのがこのニュースで、大コンプライアンス時代ならではの矛盾点も孕むものだった。

「公的な正義」(障害のある方への配慮)と「社会的な正義」(過剰なサービスの要求)の対立が真っ向から対立しているやに見え、どちらも方向性が違う正義の為に、泥沼化していく一方だったと振り返る(アテンションエコノミーなので、それすらも次の話題に燃え移り下火になっていく)。

各自の「正義」と誹謗中傷

情報化が進んで多様な正義に誰もが気付けるようになった結果、異なる考え方に寛容になるという多様性的な考え方に進むのではなくて、自分の正義を互いに主張しあい、よりぶつかる社会になってしまった。

(付け加えれば、何かを発信するときに、顔の見えない人から大量に批判される恐れよりも、普段から共感してくれる仲間から批判されることの方が実はもっと怖いのかもしれない、と感じたのが冒頭の記述である。)

もちろん誰もが発信できるからこそ、多様な意見が存在し受容されやすくなっているのは事実であるし、そのこと自体は喜ばしい。現状をネガティブに見ているだけでも前に進まないので、前向きに対策できる仕組みを考えることも忘れたくない。

明確な問題点は多々あるが、最大のものを一つ挙げるとすれば、ネット上のネガティブな影響(特に誹謗中傷)が現実世界に波及して、最悪の場合人の生死にまで影響してしまう点だと思っている。目立つのは芸能人・著名人だが、最近のいじめ自殺問題なども実態としては近しいものがあるはず。

総務省の資料「プラットフォームサービスに係る違法・有害情報 (誹謗中傷、偽情報等)への対策に関する主な論点」では、日本における誹謗中傷問題の実態や傾向など重要な検討材料が記載されている。特に以下の傾向を押さえることが、今後の対策を考える上で重要になると感じた。

  • 「悪者」を見つけて批判し不安を解消して心を満たそうとする

  • 極端な意見を持つ人の方が多く発信する/ごく少数のさらにごく一部がネット世論を作る

  • 書き込む動機は「正義感」/多くの人は「誹謗中傷を書いている」と気付いていない

総務省資料より

表現の自由をどこまで守るのかという議論はありながら、ネット誹謗中傷に関する条例(大阪府インターネット上の誹謗中傷や差別等の人権侵害のない社会づくり条例)が大阪で制定された。国を牽引する首都として、東京でも早急に取り組むべき課題だ。東京と大阪で(適切に)規制が強化されれば、それはネットに振り回され続ける社会全体へのメッセージになると思う。

幼少期の"自分ごと化"

単なる規制という手段以外にも、草の根的にやるべきこともある。

特に有効だと考えるのは、ICT教育との兼ね合いの中で誹謗中傷のリスクについて取り上げ、尊い命が失われた事例もしっかりと直視しながら、危険性と他人も自分も傷つけてはいけないという道徳教育の一環に組み合わせて、しっかりと教え伝えること。大人になるもっと前の段階から当然のこととして学んでおかないと、ただでさえ攻撃的になりがちな人口を減らすことは難しいのではないか。

子どもたちにこの話をしたところ、「そんなこと、するはずないよ!」といった声が上がりましたが、「やるかもしれない局面を考えて」と投げかけてみました。すると、ある生徒から「罰ゲーム……」という言葉が出たんですね。


たとえば、仲間内で何かゲームをしていて、誰かが「負けた人は、ゴミをトレーごとゴミ箱に捨てる!」と言い出したとしましょう。その場では「面白いじゃん!」と盛り上がったけれど、いざ自分が負けてしまったら、内心「イヤだな」と思っても、もう言えない……そんな局面なら、「やるはずない」ようなことも、やってしまうかもしれません。

その「なぜ」を徹底的に考えることで、自分がやるかもしれない局面に立ったときも、同調圧力などの愚かなことに初めからちゃんと抵抗できると思うのです。

SNSの誹謗中傷 子どもを「加害者にしない」教育 名門校・開成学園に学ぶ「国語」の重要性 - コクリコ|講談社 (kodansha.co.jp)

「教え伝える」方法を考える上で、上記のインタビューでは、表面的な道徳指導で終わらないことも重要と示されている。学生に"自分ごと化"してもらう為に、「なぜ」を追求する。近年重視される探究学習と同様の発想で、一方的に教え込むだけでは機能しない。

道徳教育としては今も十分やっているかもしれない。重要なのは、現状では明らかに足りていないということだ。それはまさに幼少期(学校教育期)における"自分ごと化"ではないか。

上記にも関わるが、リスクに関する議論の時間を増やすとか、インパクトのあるドラマ仕立ての教材を採り入れるとか、工夫できる余地があるはずだ。本当は国全体で取り組むのが良いと思うけれども、それは難しいので、東京や渋谷という自治体レベルでまずやるべきことではないか。

(ちなみに、最近放送されていたドラマ「しょせん他人事ですから 〜とある弁護士の本音の仕事〜」(テレビ東京系)もリアルな再現で"自分ごと化"する良い機会だった)

ネットという空間で正義の執行による快感が肯定され、相対的に自分の地位が上がったように感じられます。つまり、社会的正義を守るという反支配的悪意を装った支配的悪意が働いているのです。ネットで誹謗中傷をする人のモチベーションを突き詰めると、他人の承認を得ることに尽きるでしょう

なぜ日本人はSNSで他者をバッシングし続けるのか...「日本人が世界一イジワルな理由」“強い不安遺伝子”と“正義中毒に弱い”という特徴がヤバすぎる(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) (gendai.media)

事実としては違いないが、本能だからと放置するわけにいかない。今や一億「総正義」時代。何か仕組みで手を打つとすれば、(分かりやすい規制とは別に)教育の部分から変えていくべきだ。

デジタルでもリアルでも、東京や渋谷に住む人々が他人に優しくなれるような教育が、今こそ求められている。


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