親を許さないあるいは捨てるための方法を学ぶということについて

 安倍元首相の銃撃事件を起こした山上徹也の家庭環境を知れば知るほど、私は辛く悲しい気持ちになってしまう。幼い頃に家庭環境が不安定だった人々は、彼と自分の境遇を重ねてしまうと思う。私は彼ほど悲惨な状況に置かれていたわけではないが、幼い頃の環境は苦しいものであったから、その辺りの事情を書きながら、表題である「親を許さないあるいは捨てるための方法を学ぶということについて」考えていきたい。

 私の父は統合失調症で、50歳のときに自殺している。父が統合失調症を発症した時期は私が小学6年生頃であるが、それ以前から言動は理解できないところが多かった。とにかく神経質で暴力的であった。その怒声は家庭内で響き渡っていたし、時には母に対する暴力もあった。その怒りは理不尽で、いつそれが爆発するかは不明瞭であり、いつもびくびくしながら生活を送っていたし、泣いている母を見ながら私も泣いていた。一度、あまりに酷いと感じて「そんなに喧嘩するなら離婚すればいい!」と父に言ったことがあるが、烈火のごとく怒られたものである。私は父の姿を見ながら「絶対にこんな人間にはならない。明るくて優しい人間になってみせる」と幼い頃に誓って、本来の自分の気質とは異なる行動を自身に命じ小学生時代を過ごしていた。しかし、それは作り物でしかなく、家でも学校でもストレスを感じていた。その影響か腹痛や体の痛みに苦しめられていたし、口の中に大量の口内炎ができて辛かったこともある。

 そうした日々を過ごしているうちに、父の様子がおかしくなり始めた。「盗聴器が仕掛けられ自分は監視されている」だとか「俺には西郷隆盛の血が流れている」とか言うようになったり、突然裸足で外に出て走り出し近所のたばこ屋に飛び込んだりと、幼い頃の私には理解に苦しむようなことが続いた。早朝、まだ日が昇らないうちから父が家で叫びながらわけのわからないこと言っており、あまりに辛くてすぐに外に出て泣きながら学校に行ったこともある。あの朝日が昇り空の色が変わっていく情景は今でも脳裏に焼き付いている。泣きながら学校の机に座ったとき教師から「なに暗い顔してるの?」と軽い調子で聞かれたとき、大人はなんて冷たいんだと感じた。本当は「大丈夫? 何か悩み事でもあるの?」と声をかけてもらいたかった。結局、私は家で起こっていることを誰にも相談できなかった。
 その後、父は精神病院に入院し投薬治療を開始し徐々に落ち着き始めた。だが、その代償として父は人が変わったようになってしまった。喋らなくなってしまったし、家では殆ど寝ていた。仕事は続けていたが休むことも多くなった。
 父がそんなふうになってから、母は車の免許を取り働くようになった。私が今こうして文章を綴っているのは、母が強い人だったからであり、それは運が良かったということなのだろう。もし、母がこの悲惨な状況下において、例えば新興宗教などに救いを求めていたら、間違いなく家庭は崩壊していたし、私は自殺するか犯罪者になっていたと思う。だから山上徹也と私の距離はそんなに遠いものではない。その違いは運だけである。

 中学生になった頃、テレビを見ていたら、たまたまジークムント・フロイトの特集が組まれていた。それを見て初めて父親のおかしな行動を少しだけではあるが言語化できるような気がした。当時はインターネットなどない時代である。知識や情報は家庭内の状況あるいは偶然でほぼ決まってしまう。それから私は色々な本を読む生活を始めることになった。
 その後、私は東京で生活を始めることになるのだけれども、その頃に実家の隣の土地に父方の祖父母が引っ越してきた。土地は祖父が所有していた。私はこの祖父母のことが嫌いで、小学生の高学年の頃に様々な言動を見るうちに「この人たちはおかしいのではないか」と感じるようになっていた。私の父は建築士で、実家も父の設計によるものであった。庭も父が植物や岩を配置し作ったものであった。隣に引っ越してきた祖父はその庭の木を切りめちゃくちゃにした。その頃、父は感情を露わにすることはなかったが、この時だけは怒ったらしい。私もそのことを電話で聞き祖父母に対し怒りを感じた。それからしばらくして父は自殺した。7月の終わりだった。
 実はこの死には父の職場の同僚の死も影響していると考えられる。その同僚は焼身自殺をしている。私は幼い頃に父とその同僚と一緒に釣りに出かけたことがある。だが、その日は結局海が荒れ船を出すことはできなかった。二人が荒れる海を眺めている姿を私は後ろから見ていた。その二人がその後自ら命を絶つことになるとは幼い頃の私は考えてもいなかった。

 東京から実家に帰ってきて祖父が私に言った言葉は今でも忘れられない。「パトカーがこなくてよかった。救急車だけだったから。パトカーが来たら自殺だと周りに分かってしまう」と。実の子の死よりも世間体に重きを置く祖父の姿を見て、父は愛されなかった人だったのだろうと感じた。祖父母は父に「お前のことを愛している」と言う。だが行動はそれに一致しない。いわゆるダブルバインド(二重拘束)であり、矛盾したメッセージは父を狂わせるひとつの要因でもあったのだろう。
 そして8月になる頃、意識不明の状態であった父は死んだ。それから20年後、祖父も寝たきりの状態になり、病院のベッドの上にいた。年齢は100歳を超えていた。意識があるのかないのかもわからなかった。一度だけ顔を見に行ったことがあるが、悲しみを感じることはなく、私の家のこの100年間は一体何だったのだと虚しくなった。それから数年後、祖父も死んだ。私は祖父の葬式には行かなかった。

 そんなこともあって、私は幼い頃から子供を持ちたくないと思っていた。自分と同じような苦しい思いを新たに生まれてくる子供に感じさせたくなかったからであるのだけれども、同時に自分が父親になってしまうと、父と同じような末路になってしまうという不安と恐怖が自身の心のなかにあったからでもあると思う。しかし、こうした考え方は一般的ではなく、特に恋愛をやっていると相手の考え方とのずれが大きくなってしまい苦しむことになってしまう。そうしたなかで、自分の家庭が普通だったらよかったのにと何度も思ったし、そうした気持ちは徐々に蓄積し怒りへと変わってゆく。私は葛藤しながら歳を重ねてきたが、40歳を過ぎたころに「私は世界を憎んでいる」そして「自分の人生は失敗だった」ということをようやく受け入れることができるようになり、そのことで気持ちが楽になり日々を淡々と過ごせるようになった。

 親を選ぶことはできない。死別するのでなければ、親子関係は長い間続いていく。だから愛されなかった子供たちにとって親と縁を切ることが重要になってくる。しかし一般的に「親には感謝するべき」という考え方が強いから、その方法を知ることは難しい。今はインターネットがあるから親と縁を切る方法を知ることもできるかもしれない。しかし前述した「親には感謝するべき」という考え方が一般的なため、親と縁を切ることに罪悪感が生じてしまい中々それができない。親ガチャは確かにあるのに、そういう言葉を使うのはけしからんとメディアで発言する人も多い。また「許してあげれば」と言ってくる人々もいる。だが、親を許す、許さないは本人が決めることであって、一生許さないことも大事な選択肢のひとつである。
 私が社会に出て働くようになってから強く感じたのは、両親から愛されて育った人々には敵わないということである。愛された人には決して傲慢にはならない自身と人生を肯定する力がある。愛されなかった人がそれに嫉妬して同じようになりたいと思っても必ず失敗する。私はその失敗を数多く見てきた。親に愛されなかった人々は色々なことを遠回りしてしまうのである。愛されなかった人々はまず「親は私を愛していなかった」という認めたくない事実を受け入れることから始めなければならない。
 家族が重要なものであるのは言うまでもない。人間は動物と異なり長期間親の庇護が必要な存在であり、また他者からの肯定が必要な存在でもある。だが、家族の重要性を説くときは、それと同時に親から愛されなかった人々、あるいは親から捨てられた子供たちのことを考えたうえでの、社会のあり方を模索すべきである。だから、どうやって自立し、親を捨てるかを大人たちが愛されなかった子供たちに伝えることができるかが重要なのである。そうしなければ愛されなかった子供たちはやり直すことはできない。私は親に愛されなかった人々が自身と他者を傷つけるのではなく、やり直せる社会であって欲しいと切に願う。


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