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夏目漱石『二百十日』の圭さんに感じる悲しみについて

「華族や金持ちがさ」

「あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りない位、毒々しくて図迂図迂しい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「例えば今日わるいことをするぜ。それが成功しない」
「成功しないのは当たり前だ」
「すると、同じ様な悪いことを明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、又同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じ様に重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕と一所にやれ」
(夏目漱石『二百十日』 新潮文庫版p88-89)太字は筆者が施した

何をやるというのか

 夏目漱石の『二百十日』は圭さんとその友人の碌さんの掛け合いが特徴的な小説だ。中心的な登場人物である圭さんは「華族や金持ち」を嫌悪し、そうした特権階級を打倒しなくてはならないと考えている。
 引用したのは作品の中でも最後に近い部分だが、ここだけを読むと圭さんは碌さんをそそのかして武力革命かテロでも画策しそうだ。
だが、本文はこう続く

「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
そこでともかくも阿蘇へ登ろう」(引用 同じ)

 ちょっとまて、である。圭さんは碌さんと「そこでともかくも阿蘇へ登」る約束をするのだ。もちろん、作品全体を読めば違和感はない。圭さんと碌さんは前日、二百十日の荒天の日に阿蘇登山を試みて危うく遭難しかけている。だからこそ、リベンジの約束をしたわけだが、金持ちや華族を打倒することと阿蘇登山と関係はあるのだろうか。願掛けにしても少々回りくどくはないか。

「怒り」はあるが

 ところで、圭さんは豆腐屋の子だと本人が作中で述べている。幼い頃に何らかのきっかけで一念発起して、知識と教養を身に付けたようだ。今ではディケンズを引き合いに出し、フランス革命史も語ることができる。正義の怒りを心に持つインテリなのだ。
 そんな圭さんは口ほどには行動が伴っていない。そのため、碌さんにも「思っているだけじゃ劔呑なものだ」と突っ込まれるが「なあに年が年中思っていりゃ、どうにかなるもんだ」とはっきりしない。
 圭さんには世の中の不正義に対する熱い怒りがあり、敵の姿も見えている。さらに、それを言語化する知性もあるのだが、行動の指針はない。
 こうした、中途半端な感じは実に漱石作品の主人公らしいといえばらしい。ただし、世を厭うてはいるわけではなくあくまでも明るい。一種の爽快さと愛敬があるのが圭さんという人物である。

『二百十日』の悲しさ

 話は移るが、圭さんの言う「華族や金持ち」の類は現在の世の中にも蔓延っている。自民党の裏金の問題や統一教会との不適切な関係の問題、そして数々の問題についての不誠実な答弁など、枚挙にいとまがないほどの国民への裏切り行為の数々だが、それよりも何よりも、何があっても責任を取らない姿勢こそ、まさに「わるい事を重ねて(どうでも)いい事にしていっている」手口に他ならない。そしてそんなことがまかり通るこの社会はめちゃくちゃだ。これはこの作品で言われた通りの状況だ。というよりは、「毒々しくて図迂図迂しい」者たちのふるまいはいつの世も同じということか。
 「毒々しくて図迂図迂しい者」がいつの世も同じならば、「圭さん」のような人もいつの世にもいてしかるべきだ。そうだ、行動の伴わない慷慨家はいつの世にもいて無力だ。文明の怪獣はいつも打ち殺されない。

 漱石自身は「圭さん」的あり方に対しては肯定的なのかもしれない。教育を受け、「圭さん」のように反階級的な考え方をする人が増えることそれ自体に意味があり、そうした人たちが身近な人を啓蒙することで、暴力に訴えずとも世の中は「どうにかなっ」ていく、と。それくらい作中の圭さんには屈託も迷いもないように見える。

 だが、圭さんが明るく怒るからこそなおさら『二百十日』は悲しい。この作品の成立から120年経って私たちは漱石に言いにくいことを報告しなくてはならないようだ。
 豆腐屋の子でも誰でも、なりたいようになれる世の中はどうやら実現し、その結果力も金もない平民のために生活するのではなく、華族や金持ちになることをみんなで目指す社会が出来上がってしまったと。
 かく言う自分もその一人であることに今さらやりきれなさを感じてしまった。









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