大人、繋がりとは

「圧倒的な結果を残すか、他人の役に立つか」

人との繋がりを作るにはどちらかしかない。
これに関して、妙に納得してしまったのだが、
なんとなく違和感も感じているので今一度ゆっくり考えてみる。

振り返ってみて、
学生時代にはこのどちらも必要なかったように思う。

ただ、目立ちたかったり、モテたかったり、話したかったり、
ただそれだけで他人との繋がりを持てた。

あの頃、おれに圧倒的な結果もなければ、
他人の役に立つようなこともした覚えはない。

「学校」という閉じられた世界のみが持つ特殊な作用が働いていたのだろうか?

確かに学校は否応なしに他人と空間を共にする。
ある種"繋がらざるを得ない”環境とも言える。
そして、限りなく均質化された、年齢も学力も自分に近い人間が集まっている。
そんな環境ゆえの力学が働いていたのだろうか。
後にも先にも勇気をもって話しかけるだけで繋がりを持てたのはあの頃だけだ。

さて、「繋がり」とはなんだろうか?

「圧倒的な結果を残すか、他人の役に立つか」

確かに、上記は正しいように感じる。

ただ、結果を残してようやく繋がりを持ったヒトは、
あなたが結果を出すことを望んでいる。
言い換えれば、結果を出さないあなたは望まれてない。

同じく、他人の役に立つことでようやく繋がりを持ったヒトは、
あなたが役に立ってくれることを望んでいる。
言い換えれば、役に立たないあなたは望んでいない。

正確に言えば、上記2つで得られるのは繋がりではなく、
人脈というほうが正しい気がする。

おれが捻くれた見方をしているのだろうか。

もう一度問う、「繋がり」とはなんだろうか?

親、友人、同級生、同期、先生、恋人、上司、、、、
これらに共通するもの…

意味なんてない…ただそこにあるもの…?
つまり、繋がりに意味を求めた時点でそれは純粋な繋がりとは言えないのでは…?

ポジティブとかネガティブとか好きとか嫌いとか以前に存在するもの。
それが「繋がり」なのかもしれない。

だとすれば、繋がりは求めるものであってはならない。
人が他人に何かを求めてしまえばそれは純粋な繋がりではなくなってしまうからだ。
ただ社会人にまでなると、
なにもせずに場だけ用意されているようなことはない。
たぶん大人が繋がりを持つ上で難しいところはここなんだろうと思う。

ま、こう解釈してみたところで急に事態が好転することはないので、
日々目に見えたことを自分なりに解釈して吐き出すしかない。

何の価値もない、ゴミクズでも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?