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无伝を2部しかリアルで見れなかったおっさん審神者がいろいろ思ったこと

要約:望みも甲斐もない死に強引に書き込まれる”物語”の残酷さ。

諸注意事項

舞台刀剣乱舞 无伝 夕紅の士 のネタバレを大量に含みます。個人の感想です。特定の解釈を強要するものではありません。書いた人はまだまだ刀ステには無知なのでいろいろ間違ってる可能性がありますがご容赦ください。

これを書いた人について

そろそろ敦盛とか覚えないとまずいかもしれない歳のおっさん審神者。ゲームのとうらぶはようやく2年目。初期刀は歌仙兼定。勝手に熊本を第二の故郷と思い込んでいる。BMI35くらいの刀剣男子が顕現してくれる日を指折り数えて待っている度し難いダメ人間。般若心経は暗唱できるけど観音経(普門品第二十五)は経本ないとしんどい程度の優婆塞。「主の祈りは文語でないとダメ」教派のカトリック教徒。

前説:ローソンチケットのホルダーを冷蔵庫に貼り付けるときには向きに気をつけよう

いろいろあって仕事もしんどくて、ああ今月はとうらぶをまたステアラで鑑賞できるんだなあ楽しみだなあ(配信で全部見たけど)と思って迎えた週末。入り口でチケットホルダー(ローソンでくれるやつ)を開いたら代金支払い証明書はあるけど交換したはずのチケットがないじゃん?あれ?もしかして…

(無くすのが怖かったのでチケットホルダーごと冷蔵庫に磁石で貼り付けてた→チケットだけホルダーから無くなってる→ホルダーは片側が断ち切りになってる→もしやチケット本体だけが断ち切りから床に落っこちてる?)

さいあくだ…

心で泣きながら帰宅する途中、

というナイスアイデアが心に浮かぶ。あとはおっさん特有の「カネで解決できることは積極的にカネで解決する」メソッド!
ああ、チケットは予想通り床に落ちてたさ!最悪だね!

ちょうど幕間の休憩時間に滑り込むことができて、他の席の人に顰蹙を買うことなく2部を鑑賞できた、という次第。いやあ久しぶりにこの手のやらかしをして色々勉強になった。チケットは現物を確認してから家を出ような!

本論:2部しか見れなかったけどいろいろ思うところはあるぞ

「いるはずのない真田十勇士」が顕現し、「いるはずのない高台院」が大阪城にいる世界。初めから破綻した世界。そして歪な状態でそこにある泛塵と大千鳥十文字槍。特に大千鳥は自分の顕現できた理由に無自覚であることを匂わせる描写があちこちにあって見てて辛い。真田十勇士にもそのへん突っ込まれたけど。

これが今回の勝利の鍵でねえ。高台院さまのお顔とかはっきりくっきり鑑賞できました。母の顔でしたね。1部(の畑仕事あがりのところ)見たかった。高台に突っ立ってセリフ喋ってるだけなのに完全にその場を支配できる目力、すごい。ヅカファンがヅカ沼にはまるのも良くわかる。あ、あと刀剣男子のバッキバキの腹筋も堪能できました。すごい鍛え方だ…

鶴丸と三日月のやりとり。「この戦いは果てがないのかもしれない、そうだとしたらどうやって狂わずにいられる?」という鶴丸の問いに三日月は「あの本丸があれば」とか言い出すんだけど、そのシーンで表現される舞台のしつらえはなんというか、実在する本丸というより「すでに彼岸にいっちゃった本丸」という感じがして、表向き楽しげに話す「本丸での刀剣男子のおもしろエピソード」もお通夜の席で「いやあの人はあのときこんな事をして」的な思い出話に聞こえちゃうわけですよ。どうなんだろう。pixivとかでは「本丸全滅系シナリオ」なイラストを時々目にするけど、あんな感じになってないだろうな?刀ステ世界の本丸は無事だろうな?と思うと気が気じゃない。

真田十勇士(が顕現した、元はなんともしれない由来のよくわからない刀)。

「無から生まれた」十振りの刀。えーと、刀剣男子、じゃないんですよね?いないはずのヒトたち。自分たちが空虚な出自であることに自覚的で、だからこそ、なのかな?得物=本体 の形がいちいち変。「無限の住人」の卍さんかよ、な形の刀ばかり。彼らは人の形を得て幸せだったのだろうか。概念が人の姿になって得られる満足とは。考えると気持ちがくらーくなるのでこの辺で止めたい。ただ彼らは限られた生を全力で生き切った。それは豊臣秀頼と同じくらい重い。ところでwikipediaによると秀頼さん、身長197cm体重161kgだそうですのでほらやっぱりBMI35の刀剣男子よ来たれ!ここに顕現せよ!ほらすぐに!(錯乱)

三日月宗近。刀ステ最重要刀剣男子(ってことでいいですよね?)。とにかく无伝では強い。鬼強い。真田十勇士を迎え撃つときの登場の仕方とか「あれ?自分は仮面ライダー01とか見ててここは『滅』の登場シーンなのかな?」って思いましたよ。あのオーラは悪役のそれでした、マジで。刀を振り下ろすときにいちいち腰が入ってるんですよね。体幹の鍛え方が半端ないんだと思います。今作では前作みたいに「移動する八百屋舞台」なんて危険な仕掛けはありませんでしたのでそこだけは安心しました。

ところでステアラ舞台のぐるんぐるん回るシーン(a.k.a.「ラッセイラシーン」)で三日月が一人で1周以上したときに場内で拍手が出たんですけど、あとで検索したらあれは賛否両論なんですね。自分は「あ、ここで拍手するのがお作法なんですね?」と思って素直に拍手しちゃいましたが。普通の舞台と違うとこういうところも試行錯誤ですねえ。何が「正しいお作法」かについては今後なんとなく決まっていく事でしょう。

高台院。はじけるヅカパワー!(つよい)とにかく表情と立ち姿と目力がすごい。そこにいるだけで舞台全部を支配できる。やばい。それとは別にして「秀頼の介錯を高台院がする、斬首された首を抱いてようやったえらかった頑張った、とねぎらう高台院を三日月宗近が歴史修正のために斬る」というくだりはこう、21世紀の人としては受け入れがたいもんがあって観ててしんどかったです。共感できるポイントが無い。この辺は无伝全編で感じたところですね。価値観が今と違いすぎる。いや諸説に逃げたほうがよかったのでは?とか思ってしまう。

「この戦いに果てがないとして、どうやって正気を保つ?」な鶴丸の問いに三日月が「簡単なことよ、我らにはあの本丸がある!」と返すところで舞台に広がる「あの本丸」を象徴する刀剣男子たちのマネキントルソシーン。あれ、すごく「彼岸」に見えてしまって。三日月が「正気を保つよりどころ」として語る劇中の本丸が健在なのかどうか疑いたくなります。大丈夫だよな?本丸、まだあるよな?

へし切り長谷部vs黒田如水。「如水のほうが格上です、分かりますよね?」な立ち振る舞いが怖い。助けに入る薬研藤四郎のカッコいい事!ゲームでもセリフがいちいちオトコマエなんですよねえ薬研(特に極ってから)。長谷部は申し訳ないけど今作ではやられ役だったねえ。主命とあらばなんでもやってくれるヒトなので次回登場時には頑張って欲しい。

数珠丸恒次。日蓮上人の持物という伝承あり。どうやって視界を確保してるのかなー?ってくらいいつも瞼を閉じてる。そのくせ殺陣での殺し方が一番エグい。あれですよ「直上から鎖骨に向けて刀を振り下ろしぶっ刺す」とか、エリア88のマップの殺され方と同じじゃないですか(最近読んだ)。日蓮さんならそれくらいやるよな(たぶん)という謎の説得力。あと演者さんの手足がすごく長くて舞台映えする。おのれ高身長。嫉妬する(これを書いてる人は身長168cm、数珠丸を演じた高本学さんは身長180cm)。

大千鳥。「日の本一の兵の愛槍」と言う割りに逸話に乏しい。実在すら疑わしいところへ持ってきて自分は逸話の弱さを疑いもしないあたり「あー…」としか思えない。明らかに「かわいそうな子」ポジション。泛塵はその辺弁えてるっぽいという話も聞くので尚更辛い。曖昧な逸話で括られた政府刀剣男子が曖昧な説話から生まれた刀剣男子(的な)真田十勇士と相対するとか。見てて辛くなるね。本当に。ただ槍が舞台でぶんぶん振り回されるのは見惚れる。演者さんすごい。

鶴丸国永。刀ステ的には「染鶴」と個体識別される役者さんの鶴丸。配信動画で観てて「あんな痩せ細ってて大丈夫だろうか」と思ってたけど結構シャウトするんね。漢みを感じます。個人的にはこの方の殺陣が一番好き。

結論:悲伝→陽伝。これを「あ、ハッピーエンドへのルートが開通したのね(はぁと)」とか素直に受け取れない。綺伝はどうなる

无伝は天伝と比べて「後味の悪い」シーンが多めでした。個人的に。

天伝もいい加減人が死にすぎるんですが、无伝はそれに加えて斬首シーンとかが(演劇的に処理されてはいましたが)生々しくて「いや、あんたらみんな狂ってるから」と言いたくなりました。ただあれが中世ニッポンの価値観だと思うと「いやあ21世紀になってよかったよね」としみじみ思います。

綺伝でもキリシタン大名が死にまくるわけですが、あれは死に意味というか納得づくの理由があった感じがあって全く違和感がなかった。むしろ「うん、君らはここで死ななきゃだよねー」な気持ちにさえなった。クリスチャンと殉教はわりと相性がいい、これは真理。

今回の无伝では「真田十勇士(死)」「豊臣秀頼(死)」「高台院(死)」「大阪の町の登場さえしないいろんな人たち(たぶん死)」ということで全編に死の匂いがきつい。曼珠沙華が背景いっぱいに表示されたシーンがありましたよね?自分の中では曼珠沙華ってお彼岸=死のイメージなんですよ。ああ、歴史を守るっていうのは無数の屍を踏みつけながら為す行為なんだな、そうまでして守る歴史ってなんだろう?って気持ちにもなりますね。いやこれ何度も書いてますが、小松左京翁に刀ステを見せたかった。なんと言っただろう。

果しなき流れの果に (角川文庫) 小松 左京 https://www.amazon.co.jp/dp/B00W2ZRC5W/ref=cm_sw_r_tw_dp_A7ERD48FSYS6TT92C7T6

ラスト。突然メタな展開になって「悲伝」の文字が「陽伝」に置き換わる。まだ何もわからないけど、これは三日月宗近を巡る物語が書き換わるということで素直に受け取って良いのだろうか。鬼丸(としか見えない)の顕現シーン、なんで桜の大木が血の色に染まって桜の花びらが1枚欠けた状態になってるんだろう。気になることはたくさんある。個人的には「あの本丸」が花丸みたいなほんわかした場所にたどり着いてもらえたら嬉しいけど…どうかねえ。

アゲイン。「望みも甲斐もない死に強引に書き込まれる”物語”の残酷さ」

身も蓋もない事を言うと、本作でのキャラクターの「死」は俯瞰すると意味がないんですよ。豊臣秀頼は死ぬべくして死ぬし、別にそれは高台院が介錯する必要のない話。高台院はもともと大阪城にいるはずがないし徳川の治世でもしばらく生きてたのが史実なので殺される理由はなかった。真田十勇士に至っては「いたはずのない」架空の存在だからいくら情感たっぷりに折られても「それもまたフィクションだよね?」て気持ちがどっかで働いてしまう。死ぬために呼び出され作り出されて、そして21世紀の価値観で見るとグロテスクな道理で死んでいくキャラクター達に新たな物語が書き込まれ、ラストで鬼丸は顕現し過去作の名前が書き換えられる。この作品自体が「より上位の物語構造上の都合で強引に用意された一幕の狂言」という見方も成り立つ、とも思われる。だからこそ本作での死はどれも悲しい。だって意味がないんだもの。

同じくらいの勢いで人が死ぬ綺伝では、不思議とこういう寂寥感は感じなかった。キリシタン大名は悩んで苦しんで逡巡して、「自分が武士として死ぬのかクリスチャンとして死ぬのかもう分からない」とか言いながら、それでも信仰に殉ずるという一点で意味のある死が描かれていた、と思う。異形化した細川ガラシアを手討ちにする歌仙兼定の動機にも納得できた。だから綺伝で描かれる死と无伝(もっと言えば前作の天伝も)の死の間には非常な距離感を感じる。

ここまで書いて気づいたけど、私はいわゆる「武士道」が嫌いなんだな。何のロマンも感じない。ただただグロテスクで、「少数のサディストと多数のマゾヒストから成る」という言い方がぴったりくる。そもそも切腹という作法がもうダメ。いやもう廃れてくれてよかったですよ武士道。でも日本刀は綺麗だと思う。

(オチがないな…思いついたら加筆します)

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