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嘘の素肌「第9話」

 約束の水曜日は曇天だが雨一粒降らない天候で、麻奈美さんと会社で顔を合わせた際に今夜は会う気がないのだとわかった。制約は断固として破らぬ麻奈美さんを諦めた僕は潔く気持ちを切り替え、溜まっていた仕事をこなすことにした。


 終業時刻になってもキリ良く仕事が終わらなかったので、帰りにファミレスへ入って持ち帰った業務を仕上げながら夕食を済ませることにした。二百円でなかなか飲みやすいグラスワインの白とペンネアラビアータを注文し、使い古しのノートパソコンを開く。平日の夜なので客足は少なく、僕のように何かの作業や勉強へ打ち込んでいる人の姿も散見され、夜なべ繋がりで勝手な仲間意識を持った。

 学生の時分はこうしてファミレスで、放課後に和弥と絵を描いたりポートフォリオを見せ合うのが一つの習慣だった。高校は別々の学校に進学したが、お互い美術部には入部した。僕は内申点稼ぎの部長業に従事し、和弥はあくまでプレイヤーとして部の功績を各コンクールなどで荒稼ぎしていたようだった。本格的に藝大受験を和弥が目指し始めてからは、和弥が予備校へ通うようになって放課後に会う機会は減ってしまったが、それまでは地元のファミレスこそが僕らの青春を全て詰め込める空間だった。和弥は決まってメロンソーダを四杯は飲んだ。ドリンクバーの料金を考えると、大好物のメロンソーダを四杯飲めばその対価になるからと、彼は一途に着色料だけの甘味を身体に流し込んでいた。

 僕が絵を描かなくなったのは、わかりやすく和弥が絵を将来の資本にしようと志したことが理由だった。天才と張り合えていた自惚れは微塵もないが、創作意欲を湧き立てるような存在が別の世界へ行ってしまった事実は、僕から筆を奪う大きな要因になった。どうしたって絵で飯を食いたい和弥とは違い、僕は和弥に憧れて漫画の絵を描き始めたのが創作のきっかけだった。小学生の頃から絵が好きで、クラスメイトからリクエストされた既存キャラの絵を、記憶だけで忠実に再現できる和弥はある種同級生の中ではヒーロー的扱いを受けていた。僕は和弥みたいに級友から求められたくて、家で必死に模写を繰り返し、密かに画力を上げた。

 四年生の図画工作で水彩画の単元に導入した際、内心和弥を越えようと企んでいたが、当時から既にレベルが違った。他の児童が描いた「学校内で自分が最も好きな風景」の絵は、それぞれ教室の後ろや側面の掲示板に飾られたが、和弥の絵だけが、渡り廊下に名前付きで大々的に掲示されていた。そもそも視ている景色に差があった。生きるべき世界のベクトルが、僕と和弥とではズレている。そういうマイナスな実感を経てから、敵愾心は全てリスペクトへと切り替えるようにした。そうでもしなければ嫉妬に狂いそうだった。僕の水彩画はアスレチックを背景とし、前面に構える花壇のパンジーをモチーフにしていた。和弥は昇降口付近に設置された水道だった。完全な敗北を、童ながらに恥じていた。

 その日も僕らはファミレスに居て、和弥は学ランを第二ボタンまで開け、メロンソーダのお代わり三杯目を飲んでいた。刺さったストローの先が歯型で潰れている。和弥の噛み癖が妙に気持ち悪くて直せと言ったが、未だに治らないから認めてやることにした。

 和弥は僕が部活動で作っていた創作ポートフォリオを一通り眺めた後で、リュックサックから数枚のポストカードを取り出し、山盛りポテトフライだけが鎮座しているテーブルに並べた。一昨日家族旅行で箱根へ行き、和弥の要望で彫刻の森美術館へ寄ったらしい。この数枚のポストカードは、僕へのお土産として用意してくれたものらしかった。

「なあ、茉莉。青の時代って、知ってるか」

 和弥は男がパンを握りながら壺を撫でる絵を指差して言った。

「知らない。これ、誰の作品?」

「ピカソだよ、パブロ・ピカソ。っぽくないだろ」

 彼が並べたポストカード、そのどれもが青や青緑の色味を基調としたモノクロームな作品たちだった。わかりやすいキュビズム性は片鱗もなく、どことなく地味で湿っぽい絵は、ピカソだと説明されなければ僕レベルの教養では気づけなかったかもしれない。

「これがピカソなんだ。イメージないなぁ」

「この青い絵ばっか描いてた頃のピカソ作品を通称『青の時代』って呼ぶんだけどさ。ピカソの友人で画家だったカサヘマスがパリで拳銃自殺して、その影響もあってか鬱に陥ったピカソは青の色調に支配されるようになったんだと。俺、彫刻の森の奥にあったピカソ館を歩きながら思ったんだ。こういう絵が描きたかったなって。キュビズム以外のピカソと初めて直面して、生死や貧困、盲人や売春婦みたいな暗いテーマこそ、俺は描きたいなって痛感したよ。でも同じくらい、怖くなったんだ」

「何が怖くなったの」

「いつか例えば、茉莉が事故か病気か、もしかしたら自殺でもして俺の世界からいなくなっちまったとするだろ?」

「縁起でもないよ」僕は笑わなかった。「縁起でもない」

「でも万が一があったとして、そしたらピカソ同様、俺にも青の時代がやってくるかもしれない。いや、俺は却って赤の時代、っていうのは単純すぎるか、まあ何かしらに意識を持ってかれて、そういうカテゴライズされやすい同系統の作品ばかりを生むかもしれない。その時俺は、茉莉の死から逃げずに描けるのかなって不安になったんだ」

「僕を勝手に殺して、大袈裟に未来を憂えないでよ。でも、意外だね。和弥でも不安だと感じるんだ」

「どういう意味だよ」

「お前みたいな天才肌の連中は、友達の死すら創作の糧になるって喜びそうだから」

「化け物扱いするなよ。それに俺は天才じゃないし、ただの人間。ちゃんと悲しいし、逃げるし、怖がるよ。だってお前は唯一無二、俺の親友だからな。仮にお前が死んだら、俺はもう絵なんて描けなくなるかもしれない」

「じゃあ長生きしてあげなくちゃね」

 最後の一吸いで空になった和弥のグラスを手に取り立ち上がる。「メロンソーダでいい?」訊かなくても返事はわかっていたが、一応口に出してみた。

「おう、さんきゅ。まあでも、茉莉が長生きするのはかまわねえが、ちょっとは男たちに女を分けてやってくれよ。お前みたいな悪名高い女誑しのせいで、憐れな子羊が量産されちゃ少子化が加速するからよ」

「知らないよ。僕が独占してるわけじゃないし」

「よくいうぜ、クズ野郎」

「口が悪いんだよ、絵描きバカ」


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