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嘘の素肌「第7話」

 煙草を蒸かしながら新宿を歩き回っていると次第に風俗欲はすり減っていき、気づけば僕らは大久保公園前に辿り着いていた。「みろよ、ほとんどオークションだぜ」顎で視線を誘導してきた和弥に合わせ、斜向かいの通りへ意識を伸ばした。道の端には点々と、まるで星のように佇む女たちの姿があった。立ちんぼは繁華街の外れで何度か見かけたことがあったが、聖地であるこの大久保公園周辺区域はとにかく数が多く、中には和弥が言うような十七歳に見える子も平気な顔でスマートフォンを弄っていた。

「お前まさか、さっき話してた未成年の子って、」

 僕が訝しむと、

「ああ、俺は規律と違反の間で苦しんで、性病で脳がぶっ壊れて死ぬのが夢なんだよ」

 と、暢気とも露悪ともとれる仕草で和弥は呟いた。

 不謹慎だとわかっていながら、物色的な視線を這わせながら和弥と二人、ストリートを歩いた。女の中には僕と目が合って首をくいっと傾げてくる人もいて、どこか誘われているような錯覚に陥った。酒が入っているから、そういうのも悪くないのかもしれない。なんて、自分らしくない心地になっていると、和弥が隣で「どうして女が立ちんぼになるか知ってるか?」と僕に訊いた。

「さあ」

「事情アリの彼女らは、店で働けないから立ちんぼになるんだよ。理由として多いのは未成年と性病。金が必要だけど最近取り締まりが厳しくなった風俗店じゃ、面接時に身分証は必須らしいんだってな。逆に身分証無しで働く場所は危険すぎるから、未成年が身体売って稼ぐには黙って立って男を待つしかない。まああれか、フリーランスみたいなもんだよ」モノは違うが、和弥らしい皮肉の利いた例えだと思う。「あとは病気。もう働けないくらいボロボロになった女はクビ切られるかもっと酷いランクの店に回されるから、潔く店から離れて個人事業主を選ぶ。まあ店勤務も大概だがな。あれだよ、刑務所作業みたいな」こちらは全くピンとこなかった。「とにかく立ちんぼは安価なんだ。最後までで二万とか、交渉次第じゃ平気であり得る」

「でも相手は未成年か性病なんだろ。いくら安くたって、引いたら終わりのくじ引きみたいなものだろ、それ」

「そうだと理解していても、売れるから市場が成り立ってんだよ。需要と供給。ほら、あのおっさんみたいに買う男がいる理由わかるか?」

 眼前には、至近距離で女に詰め寄っている中年男の背中があった。会話の内容は聴こえないが、この世で一番下劣なやり取りをしているのだとわかる。男の好奇心に対する女の冷酷な応対が、これからセックスをする男女にはどうしても見えなかった。

「わからない」

「多分、死ぬほど寂しいんだろうな」

 和弥が立ち止まって、空を仰ぐように煙をほき出した。冷えた空気のおかげで夜空が澄んで美しい晩だった。

「何が」

「もちろん、そこが」

 目線を僕の下腹部に向けた和弥に対し、右足で彼の尻を軽くいなした。


 おべんちゃらな和弥が足を止めたのは、ちょうど雑踏から外れ、人通りも閑散とし始めたコインパーキング付近だった。僕の歩みを制した和弥が「なあ、あれ、梢江こずえちゃんじゃないか?」と耳打ちしてくる。

 一羽の蛾が電信柱の灯りを旋回するその真下に、発色の良いピンクに髪を染めたウルフヘアの女がいた。梢江。久しぶりに耳にした名前と、かつて彼女が備えていた印象が、今目に飛び込んでくる前衛的な風貌と如何せんマッチしない。

「梢江って、梓澤あずさわ梢江?」

「絶対そうだよ、あの立ち方、忘れない」

 短いスカートの先、華奢な素足を交差させ、右脚だけつま先を立てるスタイル。中学時代、和弥が唯一想いを馳せて届かなかった女。地味で内向的な印象が強く、暗い性格からあまり交友関係は広いタイプではなかった。勿論、二十歳に行われた同窓会にも彼女は参加はしていなかった。


「ほんとにあの、梓澤梢江で間違いないの? 雰囲気違うよ」

「馬鹿野郎。俺は好きだった子のこと、どんなに変わっても忘れたりしねえよ。お前みたいな薄情男と一緒にされちゃ困る」

 梢江と思わしき相手に猪突猛進、ズケズケと接近する和弥の腕を僕は不意に掴んだが、勢いよく振り切られてしまった。もしも違ったらどうするんだという問いに、和弥は「そん時は頭下げて、いくらか訊いて、安かったらお前とはここでサヨナラだ」と口角を上げた。僕はあえて数歩下がって、梢江らしき相手に声をかける和弥を遠巻きに眺めた。数分後、万遍の笑みで和弥が隣に彼女を据えて僕を手招きした。仕方なく二人の元へ近づくと、彼女から「久しぶりじゃん、桧山ひやまくん」と、当時と変わらない梢江の声で話しかけられた。少し蕩けていて、ハスキーな音。その特徴を以て、僕も目の前の彼女を梢江だと認めた。

「久しぶり。中学卒業ぶりだから、十年以上ぶりかな」

「そうだね。というか、二人ともよく私だってわかったね」

「もちろん」和弥が嬉々として言った。「確かにイメージはがらっと変わったけど、梢江ちゃんのオーラは隠しきれてなかったよ」

「すごい。芳乃くんと桧山くんが、未だに仲良いのもびっくり。私中学時代の同級生で連絡取れる人一人もいないからさ」

「じゃあこれは運命ってことだな。再会記念に、三人で今から飲まない?」

 そこまで踏み込んでは梢江からしても迷惑だと思ったが、楽しそうな和弥に水を差したくなくて僕も「そうだよ。せっかくだしさ」と興を担いだ。

「えー、邪魔じゃない? 私」

「いいんだよ。花があった方が俺らも気分がいい」

「奢ってくれる?」

「モチ。今日の俺は金が余って困ってたんだよ」

「何それ。最高じゃん」

 梢江が和弥の肩を小突いて、小気味良い笑みを浮かべた。それにしても、彼女もまたよく自分が梓澤梢江であることを打ち明けたものだ。立ちんぼをしていると同級生に発覚するのはリスクが大き過ぎるように思えたが、そんなものを気にしていたらこんな場所で大々的に男からの誘いを待ったりはできないかもしれない。僕と和弥の真ん中に挟まった梢江を連れ、三人並んで再び繁華街方面を目指した。



 夕刻に軽食を済ませた梢江の希望でバーへ行くことになり、和弥が選んだのは路肩にひっそりと看板を構えたオーセンティックバーだった。創作に耽りながら旨い煙草を蒸かしたい時に利用すると話したその店は、受付で手荷物らを預け奥へ進むと、カウンターが十二席ほどの瀟洒な雰囲気に包まれる都心のバーらしい優雅な空間だった。ジャジーな音楽と控えめな橙照明。三人のバーテンダーがカウンター越しに業務をこなしている。

 ここでも梢江を挟む形で左端のカウンターに腰を下ろし、僕はマティーニ、和弥はギムレット、梢江はスクリュードライバーを頼んだ。和弥が梢江の許可なく煙草に火をつけると、「もしかして二人とも喫煙者?」と手慣れた仕草で梢江もまた、煙草を真紅の唇の隙間で挟み上げた。和弥が吸っているキャスターマイルドの親戚にあたるキャビンレッドが、梢江の銘柄だった。遅れをとったみたいに僕も赤マルを取り出し、いつもより煙を深く吸い込む。三種類の芳香がカウンター上で混じりあって、蔓延するムーディーにほどよく溶けていた。

 話を聞けば、梢江があのようなフリーランス・・・・・・を始めるに至ったのにも、やはり特別な事情があったようだ。急にまとまった金が必要になって、その理由が親や友人に話せる類のものではなく、勢いでお洒落をして大久保公園で立っていたらものの数分で大学生ぐらいの男に買って貰えたらしい。壊れていく貞操観念を誤魔化そうと必死に身を売り、諸々込みの四十万を稼ぎ終わった頃、その精神状態や金銭の報酬慾に苛まれ、今の稼ぎ方を手離せなくなってしまったらしい。

 そんな話を僕の右隣で語る梢江には、確かに即買われて然るべき魅力が備わっていた。滅びの美学とでもいえばいいのか。中学時分に感じていた幸の薄さではなく、儚さと形容すべき糖度の高い質感が、身売りの女になった梢江には沁み込んでいるような気がした。濃い化粧に露出度の高い服。カジュアルにまとまっているが、破廉恥なガキっぽさはない。道行く人々の視線を奪うであろうピンク髪と、その特徴的な襟足が彼女によく似合っている。みっちりと集まった睫毛を瞬かせ僕を見つめる梢江からは、バニラのような香水が漂う。

 二十三時を越えたあたり、度数の高いカクテルを何杯か楽しんでいると、ほどよく酔った梢江の語尾に粘着質な甘さを感じた。僕はそのタイミングで彼女の黒いネイルを誉め、耳を飾る大輪のピアスに冷たい指先で触れた。嫌がる素振りは見せなかったが、眉間に皺を寄せて「女の子にそういうことばっかしてるんでしょ」と溜息を漏らす梢江によって、十二年前の記憶が叩き起こされる。思い出したのは梅雨の一幕。梓澤梢江が昇降口で僕に手紙を渡してきたあの日。したためられた文章には普段の梢江からは想像もできぬような甘酸っぱい恋情が詰まっており、彼女みたいな達観主義者でも恋をするのだと狼狽した。しかし僕は親友の密かな恋情も知っていたので、このことは墓場まで持っていくつもりで梢江へはNOと返した。以降、彼女が僕とすれ違う度に顔を合わせなくなったことや、さよならの挨拶すらまともにかわさなくなったことには気づいていた。それが相手からの好意を受け入れなかった者の性だと思えば、特別鬱陶しいとも思わなかった。

 ——僕は今夜、この女を手中に納めたかった。それも金という対価を支払わずに。

 だから少し気障な台詞を、一つ奥に座って半分潰れた和弥を気にせず梢江に囁いた。和弥はだらだらと創作談を聴き上手なマスターへ語っていたが、梢江の関心は既に和弥には向いていないようだった。僕がピアスを揺らしながら梢江の耳朶を指の腹でなぞり、小さな円を描くように耳裏を撫でていく。すると「くすぐったい」と甘美な声を出した梢江に反応し、調子に乗り出した僕は、実はあの頃のこと後悔してるんだよね、と、耳元に息を吹く程度の静けさで呟いた。

「それは、私がこんな風に変わったから?」

 梢江が上目遣うような視線を、僕の懐の隙間から斜へ差し込んでくる。魅力的な二重、意識を奪うピンクウルフ、血を捕食したみたいに、紅く艶だった唇に、僕は今にでも飛びつきそうで、なんとか理性でそれを抑え、余裕綽々な表情を作って梢江に、

「いいや違う。僕があの頃から変われなかったからだよ」

 と、またも小説的な、自己陶酔を恥知らずに放った。

 梢江が「意味わかんない」と照れ笑った後、和弥に悟られないよう、僕の右小指と梢江の左人差し指をカウンターチェアの隙間で結び合った。そこで生まれる親友への裏切り的な側面も相俟って、既に下腹部は千切れそうなほど力み上がっていた。

 しかし僕は数時間後の絶望を、この段階で憂えてもいた。きっとこの女も「最愛」と呼ばれる類には到底及ばない。身体を赦せば男はすぐキープにしてくる、と女は言うけれど、僕の場合は違う。キープしているのは常に女の方で、恋をすれば僕のことなどすぐに忘れる便利な機能を備えているのだから、僕はただ、それに怯えて、いつだって真摯に向き合えないまま、都合の良さだけを売りにしているのだ。こんな人間、誰が心から好きになってくれる。母ですら愛さなかった僕のことを、誰が好きになってくれるのだ。消極的な内言とは相反する、溌剌な性愛生活の終点はいつも孤独という解だった。



「梢江は猫と犬どっちが好き?」

 僕の突飛な質問に、彼女は「犬」と短く返す。

「犬種は」

「シュナウザーってわかる? おじいちゃんみたいな犬。あれ可愛い」

「わかるよ。でも驚いた」

「何が?」

「ウチにシュナウザーがちょうどいるから」

「絶対嘘だ」

「嘘かどうか、確かめなくちゃわからないよ」

「じゃあ確かめに行こうかなあ」

「本気?」

「うん。でも確かめに行くだけだから」

「もちろん。それが終わったら帰っていいよ」

「ねえ、ほんとに確認して終わり? 何もしない?」

「しないよ。でも、しないって約束もしないかな」

「悪いなあ、桧山くん」

「そういう悪さに惹かれたんでしょ、あの頃の梢江は」

「かもね。芳乃くん、完全に寝たね」

「だね」

「私達、きっと最低だね」

「だね」



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