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昼間の星は見えなくてもそこにある

日記。というより備忘録。
書きたい文章というものは(少なくとも)自分には存在しない。そこがすべての違和感の根源だった。写真家として独立してからいろんな人に「絶対に文章を書いたほうが良い」と言われても気が進まなかったのは、私の中にそもそも「書きたい文章」が無かったからだということにやっと気がついた。
ではなぜ私は20年近くもの間インターネットという広い海の中に日記を投げ続けるのか。私にはとても明確な「読みたい文章」がある。でもなかなかそういうものに出会わない。特にここ10年は。だから私は私が読みたい文章を書いている。読みたいけど、書きたい文章ではない。そこは似て非なるものだった。壁新聞という名の日記のような手紙のようなものを23日間書き続けて今日ようやくそのことに気づいた。
この日記にオチはない。そう書いておけばオチがなくても許されると思っている。私は私の思考の辿った道をそのまま全部あけすけに書いている。PCからだと書きすぎるから、この日記はiPhoneでお風呂から書いている。夜の1時。壁新聞も書いて個人的な手紙も書いて、まだnoteも書いてる分際で「書きたい文章なんて自分にはない」とか言ってるの、私が他人だったらムカつきそう。どうだろ?他人はそこまで他人に興味がないという説もあるよね。
わからない。読みにくくても良い。ただの日記を書いていた私が私の思っていることや考えている事を書くようにしようという癖がついたのは13歳くらいの頃。「自分の頭の中にしかないものは世界にとって無いものと同じ」という言葉を何かで読んだ。当たり前のことだけど、当時の私はそんなこと知らなかった。雷。稲妻?忘れっぽい自分の「今」は今出さないと永遠に失われてしまう。それがとても怖かった。
写真を撮る理由もそれと同じ。ということは、文章由来で写真を撮っているということか?そうかも。良いカナリアは最近なかなか鳴いてくれない。私のことなんて忘れてる。私だけが覚えてる。
私はラップのリリックを書くことができない。だから憧れる。自分にもできそうなことをやっている人にはそもそも憧れない。憧れと嫉妬はよく混同して説明されるけど、私は根本が結構違うんじゃないかなと思ってる。今は。
バイト先の火星の隕石の身を案じている。最近夜に見かける寂しそうな猫のことを思う。その子と仲良しのもう一匹の猫は保護されてしまった。離れ離れ。「猫を保護するので暖かく見守ってください」という張り紙の前で座って、友達の猫を待っているあの子のことを毎晩思う。胸が苦しい。あの子はお友達にもう二度と会えないのかもと思う。風もないのに張り紙だけが揺れている。オレンジ色の光。寂しそうな猫。私には絶対に笑ってくれない猫。

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