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「言葉のおくすり」とは

私は「言葉のおくすり」という言葉を使い続けている。

音声配信には「耳から効く言葉のおくすり」、文章配信には「読んで効く言葉のおくすり」。
私はこの言葉がとても好き。大好き。

薬全般を拒否していた時期もあったりする(自然派に傾倒していた・・・)けれど、今は、必要な薬は適切な時に使うべきだと思ってる。
使うべき時は使い、必要以上には使わない。やめどきが大切。そういうスタンスになった。

私は看護師なので、薬を処方することはできない。
出来るとしたら、医師に症状を報告して必要性を伝える事くらい。
訪問看護をするようになってからは、病院より看護師の判断で薬を選択することも増えているけれど、やはり、現在の看護師は「医師の指示の元」で働く職種なので、その線引きは大切。というか、法律。

医師の指示の元でしか動けない、という風に考えると縛られてしまうけれど、看護師としても出来ることが沢山ある。
そのひとつが「言葉のおくすり」だと思っている。

言葉ひとつで、毒にも薬にもなるのだ。

他者と接するときは、言葉を使ってコミュニケーションをとる。
なのに、どんな言葉を発するかに細心の注意を払って、ひとこと、ひとこと、推古して話す人はあまりいない。
言葉が当たり前すぎて、その一言にどれほどの力があるかわからなくなっている気がする。

たった一言に傷つけられて、一生その言葉を発した人を憎むということもあり得る。
これは本当に「毒」。
心臓が矢で貫かれるくらいのダメージを与えても、「死ぬ」ことは出来ない。
言葉で貫くのは、体ではなくて心だから。物質的な死は訪れない。
けれど、その矢に仕込まれた「言葉の毒」は、その人の心を侵食し、じわじわじわじわと、その人を苦しめ続ける。
長い時が経ち、忘れたと思っても、ある日突然、何かをきっかけにまた毒に侵されていることを思い出すこともあるだろう。

言葉の毒とは、そのように永遠と効果を発揮して、人を苦しめ続けることもある。

そこで、言葉のおくすりの登場だ。

何十年も苦しめられた言葉の毒に、たったひとことの言葉のおくすりで救われることもあるということ。
けれど、これは、どんな言葉が効くのかわからないし、効果を発揮するタイミングもあれば、誰が発する言葉なのかということも大きい。
様々なことに影響を受ける言葉のおくすり。
受け取る人によって、違うもの。
ある人には薬になり、ある人には毒になってしまうこともあるから、とても繊細な薬だと思う。

「これが必ず効きます!」ということは、ない。
だから私は、「私はこれが効きました」ということを発信している。
あなたにも効くかどうかはわからないけれど、私はこれが効きましたよ、という発信。
特効薬かどうかは、わからない。でも、じわじわと効く漢方薬もあれば、サプリメントのように常時服用することで改善されるものもある。
選んでもらえればいい。
効くかどうかを決めるのは受け取る人自身だから。
その人にしか分からない、効いたかどうかは。

私は今まで、今もずっと、たくさんの人から「言葉のおくすり」をもらっている。
他愛のない会話のなかで、ちょっとした相談事の返事に、相手が何気なく発した一言が、私にとっては特効薬の事もある。

思い出すと今でも涙が出てくる言葉のおくすりがある。
それは、大切なお友達がくれた「傷ついていいんだよ」という言葉だ。

その言葉の処方者をCさんとしよう。
Cさんと私は、自己啓発グループで仲良くなったお友達。
年齢も、住んでる場所も環境も、何もかも違う人なんだけれど、とても大切なお友達だ。

自己啓発グループのなかで色々な事があった。
よくある話だけれど、グループで出会ったAさんたちと、「一緒に何かしよう」と盛り上がったのだ。
その頃は超絶躁状態で、手の付けようのない万能感でいっぱいだった私は、Aさんたちと一緒にとあるイベントを定期的にやろうとしていた。
Aさんも別に悪い人たちではないのだが、イベントはうまくいかず、赤字を垂れ流しながら続行していた。
そのイベントはAさんたちの住んでいる場所で行われていたので、私は毎月赤字を垂れ流しながら飛行機でその地に飛んでいた。

今、一生懸命思い出そうとしてもあまり詳しくは思い出せない。

Aさんとの記憶を消していた時期があるからだ。あまりに辛くて。

イベントがうまく行かないことを、Aさんに沢山責められた。責め続けられた。
のんちゃんはこういうところがダメだ、そんなんじゃダメだ、もっとちゃんとして、どうしてできないの、等々。
まさに、言葉の毒のオンパレード。

それを見聞きしていた同じグループでイベントしていた人も、聞いていて苦しかったんじゃないかな、と思う。

その毒はどんどん私の心に沁みこみ、鬱状態になっていった。
「私はなんてダメなんだろう」と常に思うようになった。
「私のせいでうまくいかない。私のせいでみんなに迷惑をかけている」と常に自己否定するように。
良かれと思ってやったこともすべて否定された。

躁状態の万能感を根こそぎ奪うくらい、たくさんの毒を与えられていた。

結局、そのイベントは継続することが出来ず、私は帰りの空港で電話で攻め続けられ「もう二度と来ない、会わない」と絶縁したのだった。
泣きながら飛行機に乗ったのは、あれが初めて。

同じグループ内だから、CさんはAさんの事も知っていたし、もしかしたらAさんからいろんな事を言われていたかもしれない。

Aさんと離れた後も、全国いろんなところを飛び回っていた私は、Cさんの住む地にも行くことになった。

たぶんCさんは陰ながら見守っていてくれて、ずっと心配してくれていたんだ。

Cさんはイベントを終えて、夜も更けたころ、ホテルまで送ってきてくれた。
そして、ぽつぽつとAさんとやっていたことの話を聞きだしてくれた。

私は、いくら自分がたくさん傷つけられたとはいえ、同じ学びをした仲間だし、一方的に悪者扱いして批判するのは良くないと思い、言葉を選んで伝えていたと思う。
そして、そういうことになったのは、「自分が至らなかったせいもあるから」という思いが強かった。

毒の影響で。

そんな私にCさんがかけてくれた言葉。

「傷ついていいんだよ」

そんなにたくさん傷つけられたのに、傷つくことさえ許されなかった、言葉の毒たちが全身にまわっていたせいで。

「私のせいで」と思わせる毒は、「傷つく資格」さえ奪ってしまうのだ。

傷ついて・・・・いいんだ・・・・
私やっぱり
傷つけられていたんだ・・・

わんわんと、泣いた。

Cさんは覚えてないかもしれないし、正しくはそんな言葉じゃなかったのかもしれない。

でも、あの日、あの時、Cさんが私にくれた言葉のおくすりは、長い間毒だらけになっていた私の心の特効薬になったのだ。

あの言葉のおくすりは、あの日あの時特効薬としてものすごい効果を発揮し、今もなお、私の心に効きつづけている。
傷ついていいんだ。
傷ついてないふりをする必要もない。
傷つく資格がないなんて、思う事もない。

そして、言葉の毒のおそろしさを、知った。

特効薬の反動で、Aさんに対し「憎しみ」が一時的に発動した。
これは、特効薬ゆえの副作用だったかもしれない。
でもそれは時間が解決してくれた。
Aさんは毒しか吐けない状態だったのかもしれないな、と思えるようになった。

言葉の毒を一切使わないでいられるかは分からない。
人は、受け取り方がみんな違うから。

だからこそ、なるべく「言葉のおくすり」を言える人でいたい。
自分の言葉が、じんわりと心に効いてくれたら、こんな嬉しいことはない。

私は「言葉のおくすり」が大好きだ。

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