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未来と希望と51%

拙者訳の『韓国が嫌いで』を学部の若い友人たちが読書会で扱ってくれることになって、いろいろな感情が一気に押し寄せている。どんな顔で参加したらよいのか、いや、気を使わせるのではないか、とか。あなたたちは男女同権だと思っているかもしれないけど、社会に出ると違うんだよ、と愚痴っぽくもなるし、30年前から何も変えられなくてごめんなさい、と申し訳なくもなるし、一緒に変えましょうと心強くもなる。

私はたぶん、世間一般が男性ジェンダーに求めているような性質が強く、女性ジェンダーに押し付けているような性質には欠けている。前者を男っぽいとか、後者を女らしくないとかいうのでしょうが、関係ないじゃんね。成果の出ない主婦業は、達成感の欲しい自分には辛かった。息子を3人も産んでしまったので、すごいですね、とか、大変ですね、とか言われるが、まあ世間が「男の子のお母さん」に求めてるイメージがあるから、大変であってほしいんですよね。私が大変だったのは、何より私自身が男の子のお母さんであることにすごく縛られていたからだ。自分で呪いにかかりに行ったというか。子育て中には違和感を感じまくってしんどかったが、それを考えていた時間には意味があったと思う。例えば、少年野球の悪口だったら新書1冊分くらい言語化できる。

少し前に「育フェミ」という言葉と、そこには「結婚している女性は家父長制を支持しているからフェミじゃない」という揶揄が含まれていることを知った。出産する女性と反出生主義者との間の論争は前世紀に一度決着がついているらしく、反出生主義には未来がないという点に私も同意する。希望は未来にしかないと考えるので。今この国で子どもを産むには前提として結婚する可能性が非常に高いが、だからといって家父長制打倒のために産まないことを選択したら男はもちろん女も死に絶えてしまうので、結局男女平等の未来は来ない。

こんなことを考えながら『ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい』の特典として大阪のtoi booksさんでもらった掌編「お願い」を読みかえしていたら涙が出た。おばあちゃんと、未来と、希望の話は、何というか私の考えるフェミニズムにすごい近かった。(これ、すばらしいんですがtoi booksさんの限定ですか?)

大前粟生さんの『ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい』は、男性の加害性におびえることへの共感と、自分もその男性であることに傷つく繊細な小説で、実は鋭い社会批判でもある。3番目の短編「バスタオルの映像」には、お笑いの場でフェミニズムを嘲笑する差別的なネタはアリか?という主題が出てくる。<コンプライアンスとかポリコレくそくらえみたいなネタ>に対する観客の反応として<やばい。えぐい。今日のネタも治安が悪くてさすがwと褒めているものに混じって、こわくて体がかたまった。と書いているひとがいた>と。その後、2020年の4月後半に、私たちはお笑いにおけるジェンダー観はどうよ?という問いをつきつけられることになって、ふたたび『ぬいしゃべ』を読み返した。すごい。

こういう、気にしない方が楽に生きていけるであろう違和感を、きちんと文章に書いてくれる男性がいることに、とても勇気づけられる。『韓国が嫌いで』を初めて読んだときにも、私は同じ勇気をもらった。

主人公のケナは女性が社会から押し付けられる役割を蹴っ飛ばして韓国を逃げ出すが、その先は困難の連続だ。と言っても悲惨さのかけらもなくて、困難を乗り越えるというよりも、問題を前にしてケナが選び取っていく姿を描いているというほうが正しい。「自分で選んだんでしょ?」とか言いながら巧妙に望まぬ選択肢を選ばせる社会に住んでいるから、考えて行動して選び取っていくケナの姿は、痛快だった。星野智幸さんの帯文<他人が求める生き方を生きさせられないために>は、まさにど真ん中の称賛でとてもうれしい。チャン・ガンミョンさんはフェミニストを自称しないが、私はフェミニズム小説だと思っている。

『韓国が嫌いで』を訳すときに一番意識していたのが、<フェミニストの息子>西口想さんの『なぜオフィスでラブなのか』だった。出版イベントで初めて会った時、私は光栄にも<最初にすごい熱量の文章を書いてくれた人>と認識されていたことを知った。この本の最後の1章は家族史になっていて、著者の母親がまた考えて行動して選び取っていくタイプのフェミニストだった。『すばる』5月号にはその西口さんと男性学研究者の田中俊之さん、『戦う姫、働く少女』の著者、河野真太郎さんによる座談会「男性とフェミニズム」が載っていて、男性とフェミニズムの微妙な距離間がわかる。男性がフェミニズムについて語りづらいというのは理解できるし、正直言って、フェミニズムを口にする男性に身構えることはある。それでも、私は男性がフェミニズムについて語ってくれることがうれしい。そこには希望があると思うから。つまり、私は女性が生きづらいこの世の中をひっくり返したいのだ。(もちろん男性が生きづらい世の中にしたいわけではない)

女性が生きづらいという問題について「男性も生きづらいから一緒に頑張ろう」とクソリプまがいの両論併記をするメディアには、天秤が完全に傾いているのに、両方に同じ重りを乗せても平等にはならないでしょう?そんなこともわかんないの、バカじゃん。と思う。世の中の半分が女性で、その女性全員が連帯できたとしても、50%ではひっくりかえらない。だから、私は男性にフェミニズムについて考えて、語ってほしい。彼らがいることで、世の中をひっくり返すための51%目を信じることができるから。そこにはフェミニストの息子を3人追加しようと思う。希望は未来にしかないと考えるので。

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