聖なる夜に花は揺蕩う 第2話 元恋人「全10話」
【あらすじ】
12月10日(金)、週刊誌『FINDERー』の事件記者・桐生、北村とカメラマンの岡島は秩父湖に来ていた。彼らは切断された遺体を発見する。きっかけは、今朝『FINDER』編集部に送られてきた手紙だった。いままでに5人殺害し、そのうちの1人を湖に沈めたという内容で、詳細な地図と免許証も同封されていた。手紙には、犯人の署名として円と十字の印が記されていた。円と十字の印を手掛かりに、桐生たちは残る4件の事件へと導かれていく。
12月11日土曜日
渋谷で井の頭線に乗り換え、下北沢まで二十分で着いた。南口改札を出て、金網で仕切られた長方形の空き地横を歩いていく。かつてここに『駅前食品市場』という名の横丁があった。トタン屋根の居酒屋が軒を連ね、孤独を愛する男たちが集っていたが、いまは空き地になっている。
「璃子さん、昼飯は何食べますか。前に来たときは、この辺に旨いお好み焼き屋があったんだけど、都市開発でいろいろ変わったから、どこに行けばいいのかわからなくなっちゃったな」
「犯人からの手紙をトップ記事で掲載するには、それ相応の背景が必要よ。それを集められるかどうかは、きょうの取材にかかっている。ランチはあとね」
『FINDER』の校了は火曜日だ。記事を書くデスクやネタを持ってきたカキ担当の記者が火曜の朝に入稿し、午前中に初稿をチェックする。誤字・脱字や不適切な表現を訂正し、午後三時に校了となる。
デッド・ラインは午後八時から九時だが、重大事件や大きな事故などが起きたときはぎりぎりまで粘って、可能な限り記事を差し替える。編集部も印刷所も命を削ることになるが、スクープとなるような大事件を前にすると、みんな一丸となって猛進するのだと、デスクの赤石が話していた。桐生はまだそんな日を迎えたことはなかった。
璃子は街の番地が頭のなかに入っているかのように商店街を突っ切り、北沢二丁目の路地を進んでいく。駅から十分ほど歩いた街並みは、閑静な住宅街だった。十二階建てのマンションの前で、璃子が振り向いた。
「まだ刑事は到着してないみたいね。急ぎましょう」
璃子は辺りを見回し、エントランスのドアを開けた。右手に集合ポストがある。この九〇二号室が瀬田絢子の部屋だ。郵便物が溢れている様子はない。ポストの横に掲示板があり、管理人室は二〇五号室と記されていた。
「先に隣人宅へ向かいますか」
桐生はエレベータのボタンを押し、璃子を見た。
「いえ、管理人室へ行きましょう。普段、被害者がどんな様子だったか訊いてみたいわ」
エレベーターの表示版を見ると、十階にランプが灯っていた。すぐ横のドアはストッパ―が噛まされ開いている。覗くと外付けの階段があった。
璃子は階段を上り始めた。桐生もあとに続く。すぐ裏手にも高層マンションが建っていた。壁に切り取られた空は、白い雲に覆われている。
璃子が管理人室のチャイムを鳴らすと、小柄で痩せた男がドアから顔を覗かせた。二人は名刺を差し出し、瀬田絢子について尋ねた。
「そういえば、ここ二、三日見かけないね。いつも礼儀正しくて、朝、清掃してるとかならず挨拶してくれるんだ。彼女、旅行に出掛けたか、出張かな」
管理人は首を傾げた。上下水色の作業着で、首に手拭いを巻き付けている。
「誰かが訪ねてきたことはありませんでしたか。親しくお付き合いしていた男性がいたとか、ご存じありませんか」
瀬田絢子の部屋は九階だ。管理人ならエレベーターの防犯カメラで人の出入りをチェックできる。頻繁に訪ねてくる男がいれば、知っているのではないか。
「あんたらは、何でそんなこと知りたいの?」
管理人は口を尖らせた。広い額に皺が寄っている。
「瀬田さんは、事件に巻き込まれた可能性があるんです。瀬田さんを最後に見かけたのはいつですか」
桐生の言葉に、管理人は目を見開いた。桐生たちが来た理由を理解したようだ。
「……木曜日は、空き缶やペットボトルの回収があるんだ。先週の木曜日に、私が通りにゴミ出ししてるときに挨拶したよ。そういえばあれ以来、瀬田さんを見てないな」
「そのとき、いつもと様子が違ってませんでしたか。旅行用のボストンバッグやキャリーを持っていたとか」
璃子は赤い手帳を開き、管理人を注視している。
「いや、とくに変わった様子はなかったね。最初の質問だけど、スポーツマンタイプの男と一緒のところを見たことがあるよ」
「それはいつごろですか」
璃子と管理人のやりとりを聞きながら、桐生は手帳に「スポーツマンタイプの男・恋人?」と書き込んだ。
「半年ぐらい前だったかな。お似合いのカップルだと思ったんだけど、うまくいかなかったのかもな。もしかして、その男が瀬田さんを……」
管理人は眉を寄せ、身震いした。
そのとき、階段のドアから男が二人入ってきた。浅黒い顔の男と目が合い、桐生は「あっ」と声を漏らした。秩父南署の尾崎だ。もう一人は昨夜、桐生の調書を作った刑事だった。がっしりとした体躯で血色がいい。
「秩父南署の畑山といいます。瀬田絢子さんの部屋を調べたいんで、鍵を開けてほしいんですけど」
二人は警察手帳を開き、管理人に翳した。手帳といっても写真付きのカード型になっている。管理人はぎょっとした様子で部屋のなかへ戻っていった。
「おたくら、やっぱり早いね。こっちも高速を飛ばしてきたんだけどね」
尾崎が桐生と璃子に視線を向けた。
「捜査本部は設置されたんでしょうか」
すでに班に振り分けられたのだろうか。それにしては早すぎる。しかも尾崎と一緒にいるのは捜査一課の刑事ではない。捜査本部に召集された捜査員が、「地取り」「鑑取り」「証拠品分析」「電話解析」「ビデオ解析」などに振り分けられることは、先輩記者から聞いていた。所轄の刑事は一課の刑事と二人一組のコンビを組むことになっているらしい。
「捜査本部は、きょうの夕方だな。準備とかいろいろあるからね」
尾崎は眉を上げた。
「尾崎さんは、この事件、『流し』の犯行だと思いますか」
入社していままでに桐生が覚えた犯人のタイプを口にした。通り魔殺人の犯人は、被害者と面識のない『流し』であることが多い。尾崎は桐生の質問には答えず、エレベーターのボタンを押した。
「きのうの二人のうち、一人は今朝、署に来ていたね。もう一人の記者さんは、一緒じゃないんだね」
「別の案件を調べてます」
答えながら、桐生は尾崎の横顔を観察した。顎のラインはシャープで、彫りが深い。太い眉は吊り上がり、ぎょろっとした目は鋭く光っている。その横顔には捜査の疲れなど感じさせない緊張感があった。
管理人が部屋から出てきて畑山に鍵を見せた。瀬田絢子の部屋に同行するため、管理人室のドアに鍵を掛けた。
「そういうわけなんで、『FINDER』のお二人はここでお引き取り願いたい」
畑山は桐生と璃子に視線を向け、階段のドアを指し示した。近隣住民への聞き込みは諦めろという意味だろう。
刑事と管理人がエレベーターに乗り込むのを見送って、二人は階段で一階へ下りた。マンションの前には赤色灯を載せた黒のセダンが駐まっていた。
「サイレン鳴らしてぶっ飛ばしてきたのかしら」
璃子はセダンを一瞥し、マンションを見上げた。ダークブラウンの外壁は重厚感があり洒落ている。
「さっき、桐生君は『流し』の犯行か訊いてたわね。『鑑あり』の事件じゃないと思ってるの?」
璃子が桐生に向き直る。
「被害者と犯人は、もともと顔見知りじゃないと思って。だって、あと四人も殺してるって手紙に書いてたし、良心の呵責なんて感じないって、異常なシリアルキラーだよ、きっと」
「そうね。あの犯行声明文も、まるでゲームを楽しんでるみたいだったしね。それもかなりの自信家よ。自分は絶対に捕まらないと思ってるんだわ。だからわざわざ免許証と死体遺棄現場の地図まで入れてきた。でも、自惚れは自滅する運命にあるのよ」
璃子は口角を引き上げ、微笑んだ。
中華のチェーン店の前で腹の虫が鳴った。
「桐生君、きのうは夜ご飯ちゃんと食べた?」
璃子はまだ眉を吊り上げたまま、桐生を見た。
「警察署を出たのが十二時くらいだったし、北村さんに車で送ってもらったけど、何かをたべようって気にはならなかったよ」
「遺体を発見したんだもんね。でも、栄養を摂らないと途中で倒れちゃうよ。この仕事は体力勝負だからね。お蕎麦なら疲労回復や二日酔いの予防にもいいから、入るならこちらにしましょう」
璃子はチェーン店の向かいにある蕎麦屋に視線を向けた。璃子は健康オタクで、桐生や北村、とくに赤石のLDL値をチェックしている。
時刻は午前十一時すぎで、店内は空いていた。カウンター席に中年の男が座り、新聞を読んでいる。奥のテーブル席では若いカップルが天麩羅蕎麦をすすっていた。
カウンターの中央に璃子と横並びに座り、ざる蕎麦大盛りと鴨せいろをそれぞれセットで頼んだ。店主らしき男は頭にタオルを巻いている。オーダーを聞くとすぐに巨大な鍋で蕎麦を茹で始めた。
「瀬田さんは、どこで犯人と出会ったのかな。璃子さんがFacebookをチェックしたときに、スポーツマンタイプの男性はいませんでしたか」
カウンターの向こう側に湯気が立ち上がる。学生風の若い店員が湯呑みを桐生たちの前に並べた。白地に淡いピンクの花が描かれている。
「思い出していたところよ。そんな男性はいなかったと思う。『友達』として表示されたアイコンは、既婚だとわかる家族写真やカップルのものが多かったわ。あとはペットの写真とか、風景写真ね」
璃子は、湯呑みを見つめながら記憶を辿っている。
「瀬田さんは、どうして結婚してないんだろう。案外、犯人とはバーで知り合ったとかね。心理学の准教授だから人を見る目も確かだったと思うけど、犯人はうまく本性を隠してたんだろうな」
焙じ茶をすすったところで、店員がトレイを桐生たちの前に置いた。桐生の蕎麦にはミニ海鮮丼と餡蜜が付いている。
「そういう桐生君だって、独身よね。見た目はモテそうなのに。瀬田さんの気持ちが一番わかるのは、桐生君だったりして」
璃子はミニ親子丼に箸をつけた。
褒められたのか責められているのかわからないと思っていると、スマートフォンが鳴った。高輪だ。桐生は店の外へ出て『通話』をタップした。
「いましがた会見があって、広報文が配られたよ。被害者の氏名はまだ明らかになってない。DNA鑑定には、ある程度時間がかかるからね。遺体の状態から、死後一日から二日経っているらしい。湖に沈んでたから、死亡推定時刻に幅があるのは仕方ないね」
高輪の声はたいして残念そうに聞こえない。
以前、東京都監察医務院院長に取材したときに聞いた話を思い返す。水中での手掌の白化は三時間から四時間で起こる。十月から十二月の水温なら、五時間から六時間かかる。手足の漂母皮化は約十二時間から一日経過すると始まり、冬は表皮剥離は三日から四日だと聞いていた。
切断された遺体の表皮は白濁していたが、蝉脱は起きていなかった。瀬田絢子が湖に遺棄されたのは、水曜の夜から木曜の午前中に絞れるかもしれない。
「僕たちが手紙を受け取ったのが金曜の午前中なんで、水曜から木曜のあいだに殺された可能性が高いと思います。犯人から手紙が届いたことは、発表されてましたか」
「そりゃあ、きみたちが速報でネットに上げてるから隠せないでしょ。でも、手紙の内容までは発表されてない。あの円と十字のマークは犯人の署名だよ。事件は続くと予告してるみたいだ」
高輪の考えにうなずく。あの手紙に書かれていることが真実だとすると、遺体はあと四体あることになる。事実を確認するまで、警察は手紙の詳細には触れないだろう。
「これから桐生君も聴き込みに行くんだよね? こっちは秩父湖周辺で不審な車の目撃情報を集めることになるかな。桐生君も何かわかったら教えてね」
高輪は朗らかに締めくくり、通話は切れた。
店に戻り、高輪から聞いた広報文の内容を璃子に伝えた。
「それなら、さっき北村さんからLINEが来てたわ。東光新聞から買ったって。それなのに高輪さんが桐生君に電話してくるのは、こっちの情報を聞き出すためかもね」
璃子はすでに鴨せいろとセットのミニ親子丼を完食し、タブレットを眺めている。Facebookの記事が表示されていた。
「高輪さんは、事件は続くだろうって言ってました。あの円と十字のマークは犯人の署名だって」
「高輪さんは、これから事件が起こるって思ってるのね。でも実際にはすでに四人もの女性が殺されてる。私たちが情報ではリードしてるわ。でもどこで抜かれるかわからない。誌面ではもっと瀬田さんのことを深掘りした記事を載せないといけないわ」
「高輪さんの取材力は凄まじいからな。深掘りするには、瀬田さんの遺族に取材できるといいけど、瀬田さんはあのマンションに一人暮らしみたいだったし、難しそうだな」
璃子を横目に、桐生は蕎麦を啜った。水分が蒸発した蕎麦は互いにくっつき、団子のように固まっていた。
「写真を調べててわかったんだけど、瀬田さんは渋谷にあるスポーツ・ジムの会員よ。筋トレ後によく記事をアップしてるわ」
「どうして渋谷のジムだってわかったんですか」
表面が乾燥したマグロを箸で挟みながら璃子を見る。
「このジム、テラスがあるの。ベンチの横に小さな噴水もあって、天使の彫刻が飾られてる。優待券をもらって行ったことがあるから、すぐわかったわ」
璃子はタブレットを桐生に向けた。『トレーニング後はプロテインで夕涼み』と書き込まれた記事で、グラスの載った白いテーブル越しに円形の噴水が写っている。記事が投稿されたのは日曜日だ。
「管理人が見たっていうスポーツマンタイプの男も、そのジムの会員かもしれないわね。これから行ってみましょう」
タブレットを璃子に返し、団子蕎麦を頬張った。
午後1時
ジムは明治通り沿いにあるという。新しくできたミヤシタ・パークにはオープンカフェや居酒屋が軒を連ね、若者で賑わっていた。旨そうにビールを飲む彼らの前を通り過ぎ、大通りを渡る。
洒落たカフェのあるビルの壁に、ジムの看板が掲示されていた。外付けのエスカレーターで二階の入口へ向かう。
ガラスドアを開けると、高級そうなショップが並んでいた。白のセットアップスーツとカシミヤのロングコートがディスプレイされている。その隣には艶やかな黒革の鞄が飾られていた。璃子はディスプレイには目もくれず、奥のエレベーターへと歩いていく。
「五階から上がジムなの。桐生君は、ダイビングの免許を持ってるくらいだから、水泳が得意なんでしょ?」
璃子はエレベーターのボタンを押し、桐生を見た。
「潜るのに運動神経はいらないよ。酸素ボンベを背負って呼吸できればいいんだ。でも、運動はそうはいかないから苦手だね。野球でもサッカーでも不測の事態が起こるけど、迅速に対応できないんだ。『アッ』て思ったときには、ボールは落ちてどっかに転がってたね。チームプレイだとみんなに迷惑かけるから、始めるなら一人でできるものがいいな。ボルダリングには興味あるよ」
ジョギングのほうが手軽だが、走るのはとくに苦手だった。ボルダリングなら達成感も味わえそうだ。ほぼ垂直の壁を自分の手と足だけで登れたら、少しだけトム・クルーズに近づけた気分になるだろう。
「ボルダリング・ジムなら都内にいくつもあるわよ。スタッフの方がレクチャーしてくれるし、難易度も選べるわ。筋肉痛は必至だけどね」
璃子はエレベーターに乗り込み、ボタンを押した。
「璃子さんて、運動神経よさそうだよね。いつも俊敏だし。もしかして、腹筋割れてるとか?」
「学生時代は陸上部よ。ちなみに腹筋の自己ベストは百三十七回ね」
璃子の答えを聞き、ボルダリングの前にまず腹筋から鍛えるべきかと考えていると、エレベーターのドアが開いた。前方に受付カウンターがある。手前にはソファーとローテーブルがあり、側面はガラス張りになっていた。外はテラスで、瀬田絢子の写真で見たテーブルと噴水が見えた。
璃子は受付で体験見学を申し込んだ。スタッフから問診票を渡され、二人はソファーに座った。
「体験するなんて聞いてないよ」
桐生は小声で抗議した。
「受付で名刺を出したら、“会員の個人情報についてはお答えできません”って言われるのがオチよ。まずは潜入して、会員から話を聞き出すのよ」
璃子は氏名から埋めながら、早口で囁いた。
璃子のいうことはもっともなので、桐生は素直に従った。問診票を受付に出すと、ウェアと靴下、靴を貸し出され、ロッカールームへ案内された。サウナと風呂があり、土曜の午後だからなのか、それなりに人が多い。年齢も幅広い。
瀬田絢子が付き合っていたかもしれないスポーツマンタイプがいないか辺りを見回していると、男性と目が合った。オーバーサイズの黒いタンクトップに黄緑色のサーフパンツを合わせいて、むき出しの腕と脚は筋肉で盛り上がっている。
「きみ、ジムは初めてかい?」
「ええ、運動はからっきし駄目なんです。でも体重も増えてるし、体を鍛えたいと思って今日は体験に来たんです。どうしたらお兄さんみたいな体つきになれるんですか」
貸し出されたTシャツの上から贅肉を掴んでみせた。
「その気持ち、よくわかるよ。俺も最初はきみと同じだったよ。それがいまじゃ筋トレが趣味だからね。ここのジムは全国にあって、二十四時間利用可能なんだよ。トレーニング後は、特製プロテインを飲むといい。受付で売ってるよ」
筋肉マンは手に持っていたタンブラーを振ってみせた。この男が、管理人の言っていた瀬田絢子の恋人だろうか。
「もしかして、あなたは瀬田絢子さんを知りませんか。香霖大学の准教授で、トレーニング後にはよくテラスでプロテインを飲んでいたそうです。テラスで話したことはありませんか」
桐生の問いに、男はうなずいた。
「瀬田さんは目立ってたからね。ここに通ってる男で彼女を知らない奴はいないんじゃないかな。このジム、ときどき芸能人も来るんだよ。瀬田さんは、芸能人みたいなオーラがあった。華があるっていうのは、彼女みたいな女性をいうんだね」
「そんなに目を引く女性なら、恋人もいたでしょうね」
「ああ、いつも一緒に来てた男がいたよ。でも最近は見かけないな。そういえば瀬田さんも最近来てないね」
筋肉マンは眉をひそめた。桐生は礼を言ってロッカールームを出た。通路には璃子とジムのスタッフが立っていた。筋力測定とオススメの筋トレメニューの説明を受け、いくつかのマシーンで汗を流した。
「ほかにわからないことがあれば、いつでも聞いてください」
爽やかな笑顔のままスタッフが立ち去ると桐生は筋肉マンから聞いた話を璃子に伝えた。璃子も会員と話したという。
「私が訊いたところ、その男性は西岐亮司さんだって教えてもらったわ。アウトドア・ライターで、いろんな山に登ってるみたい。女性会員の間で人気があって、スタジオレッスンにも出てたそうよ。『FINDER』の名刺を渡したら、西岐さんの電話番号を教えてくれたわ。メニューはこの辺で切り上げて、西岐さんに会いに行くわよ」
璃子は額の汗をぬぐうと、ロッカールームへと歩き出した。
西岐は自宅で仕事をしていた。来てくれるなら取材に応じるという。ジムを出て、西岐の自宅がある雪が谷大塚に向かった。電車のなかで西岐亮司を検索すると、ホームページが表示された。『人生の遊び方』と題され、雪原をバックに男が微笑んでいる写真が掲載されていた。脚が長く、顔が小さい。右端に記事一覧があり、日付が記事のタイトルになっていた。
「こういう男がモテるのはわかるよ。写真で見る限り、ハリウッドスターみたいだ。ほんとに世の中は不公平だって思うよ」
電車を降り、改札を抜ける。道は璃子に任せておけば迷うことがない。
「“天は二物を与えず”っていうのは嘘っぱちよ。でも、だから週刊誌が売れるって思ってるの。聖人君主だと思われていた人物の裏の顔、見てみたいって思うもん」
璃子は西岐から聞いた住所をGoogleマップに入力し、歩き出した。
「璃子さんは、自分が大好きな俳優やミュージシャンでも、裏の顔を知りたいですか」
桐生の問いに、璃子は迷わずうなずいた。
「もちろんよ。見えていた世界が幻想なら、早く気づきたいもの。真実を知ることで、自分の人生の教訓にするわ。桐生君は違うの?」
「夢がぶち壊しになって週刊誌を恨む人たちもいるから、僕は父親にこの仕事のことで色々言われちゃってます」
病室で父に言われた言葉を思い出し、うなだれた。父は年の初めに大腸癌の手術をし、半年ほど抗癌剤治療を受けていた。
――お前は人の秘密を暴くことに夢中になって、それをスクープだと言って喜んでいる。お前の記事で傷つく人がいることをわかっているのか。
手術後、父を見舞ったときに言われた言葉が、まだ桐生の胸に突き刺さっていた。父が住む家は、桐生のアパートから一時間もかからない距離にあるが、八月のお盆休みにも立ち寄ってない。
「大切なことは何か知ってる?」
璃子は道を知ってるかのように通りを渡りながら、桐生に視線を向けた。
「スクープを獲ることですよね」
「それは到達点だけど、一番大切なことじゃないわ」
赤茶色のマンションの前で立ち止まる。璃子のスマートフォンが目的地に着いたことを知らせていた。
「教えてください。璃子さんにとって、一番大切なことってなんですか」
「絶対に手放しちゃいけないのは、自分がどう思うかってことよ。自分が面白いと思うことに背を向けたら、記事を書く意味を失うことになる。正義もそう。誰かが信じてるとか、世間がどう思ってるとか、そんなのは一番じゃない。大事なのは、自分が正しいと信じてるものを裏切らないこと。そのせいで痛い目に遭うかもしれないけど、生きる活力を失うよりマシよ」
璃子は満面の笑みを浮かべ、エントランスのドアを開けた。集合ポストで西岐亮司の部屋番号を確認し、エレベーターに乗り込んだ。
四〇三号室が西岐の部屋だった。チャイムを鳴らすと、ほどなくしてドアが開いた。長身の男が桐生たちを笑顔で迎えた。肌は日に焼けて浅黒く、顔が小さい。口は笑っているが、眼光は鋭く光っている。名刺を交換し、ジムの会員から連絡先を聞いたことを伝えた。
「『FINDER』はウェブ版を購読してますよ。スクープを連発していて素晴らしい」
西岐の言葉に璃子と桐生は深々と頭を下げて礼を言った。
「読者の方々から寄せられる情報のおかげです」
「それだけ『FINDER』が信頼されている証拠ですよ。下手に会社の上司に訴えても、握りつぶされてリークした者が左遷されたんじゃ、やりきれないですからね」
西岐は桐生と璃子を部屋のなかへ招き入れた。玄関正面の壁には五十号サイズの抽象画が飾られ、間接照明がライトグレーの床をほのかに照らしている。
「こちらの絵は、海がモチーフですか。波打つ海面の向こうに、白い空が広がっているみたいですね」
横長の構図で、青と白の重なりは水平線を思わせた。水面に光が溶け込み、緩慢に揺蕩っているようだ。璃子も興味深そうに絵を眺めている。
「その絵は、私が描きました。そうですね。水をイメージしていたかもしれません。海や山で遊ぶのが趣味で、それが高じてアウトドア・ライターなんて肩書きで仕事をさせてもらってます」
西岐は廊下の左手にあるドアを開けた。前方のベランダから光が差し込み、部屋は明るかった。十畳ほどの広さで、深緑色のソファーと黒いガラスのローテーブルが落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
壁には作り付けの飾り棚があり、書籍が並んでいた。『人生を遊ぶ』と題された本には、西岐の名前が記されている。その横にメタリックな花瓶が三つ並んでいた。左右非対称の花瓶はモダンで遊び心がある。
「西岐さんは多趣味なんですね。渋谷のジムは、いまも通われているんですか」
ソファーに座り、璃子が切り出した。
「学生時代は山岳部で、三千メートル級なら結構登りました。お二人は、山はお好きですか」
西岐はコーヒーを三つ淹れ、桐生の向かいに座った。肩幅があり、無駄な贅肉がない。シンプルなグレーのスウェットでもサマになっている。
「私もいつか三千メートルを超える山に登ってみたいと思っています。西岐さんがいままでに登ったなかで、一番印象に残っている山を教えていただけますか」
元陸上部の璃子が言うと、説得力がある。桐生は璃子の隣で手帳を広げ、うなずいてみせた。
「二十代の終わりに、パミール高原に行ったときは大変でしたね。四千メートルで肺水腫になって、ヘリで救助されたんですよ」
想定外の答えに、璃子は眉を寄せた。
「そんな目に遭ったら、二度と登山なんてしたくないと思いますが」
「あのときは、死を間近に感じました。でも、だからこそ命の有り難みを知ったんです。俺は自分の力で生きてるんじゃない。何か、大きな力に生かされてるって。だからもっと精一杯生きなきゃいけないって思いました。そんなことを感じさせてくれる登山に、ますます魅了されたんです。それで、カラコルムのガッシャーブルムに挑戦したのが三年前です。そこは八千メートルを超える十四座の一つです」
西岐は少年のように目を輝かせ、笑みを浮かべている。
「それって、ヒマラヤですか」
「ヒマラヤは、山の連なりの総称なんです。カラコルムはヒマラヤのすぐ近くにある山脈で、八千メートルを超す山が十四あるというわけです」
西岐はブラックのまま、コーヒーをすすった。穏やかな微笑を崩さない。
「登頂は成功したんですか」
桐生は雪に覆われた絶壁を頭に思い浮かべ、身を乗り出した。
「いえ、残念ながら五千メートルの手前でひどい高山病に罹りましてね。あの時はペースを上げ過ぎたんです。途中から息が荒くなり、フラフラしてきました。そのうちに嘔吐と下痢に見舞われて、とてもじゃないけど下山するしかありませんでした」
「カラコルムへ出発するとき、ご家族や恋人から反対されなかったんですか」
璃子はさりげなく“恋人”と口にした。
「当時付き合っていた彼女は、応援してくれましたよ。あの頃はテレビ局でカメラマンをやってたんで、待っててくれたんでしょう。でも局を辞めてライターをやるって言ったら、愛想を尽かされちゃいましたけどね」
西岐は璃子に笑いかけた。この笑顔で女性たちの心を掴んできたのだろう。端正な顔立ちというだけではない。趣味を仕事にしているせいなのか、目が生き生きとしている。
「その別れた恋人というのは、瀬田絢子さんですか」
桐生は名前を口にした。西岐の顔から微笑が消える。
「……どうして、絢子のことを知ってるんですか」
西岐は桐生と璃子を交互に見つめていたが、突然笑い出す。
「そうか。だから、あなたがたはここを訪ねてきたんですね。絢子に何があったんです? 私にも知る権利があると思います」
「事件に巻き込まれた可能性があります。西岐さんが絢子さんと最後に会ったのは、いつですか」
「絢子とは、半年前に別れました。あれから一度も会ってません。絢子は……いまどこにいるんですか。病院にいるなら、場所を教えてください」
「それが、いまは詳しい状況をお伝えすることができないんです」
璃子の言葉に、西岐は力なくソファーにもたれかかった。視線は放心した様子で虚空を彷徨(さまよ)っている。
「状況が明らかになったら、また連絡します」
気まずい空気を残したまま、二人は西岐の部屋をあとにした。
駅へ向かって歩きながら、空を見上げた。白い雲の隙間から青空が覗いている。
「西岐さん、相当ショックを受けてましたね。瀬田さんのことを大切に思っていたのに、どうして瀬田さんは愛想を尽かしたんだろ。僕だったら全力で応援するけどな」
「私なら別れるわね」
璃子はそっけなく切り捨てた。
「八千メートルだよ? ボルダリングを始めるかで悩んでる僕からしたら、ヒーローに等しいけど」
切り捨てられると、肩を持ちたくなる。
「フィクションなら受け入れられるけど、現実には厳しいわね。考えてみて。山のてっぺんに悪の巣窟(そうくつ)があるわけじゃないのよ。何しに行くの? カラコルムなんて行ったら二ヶ月は帰ってこられない。連絡も取れない状況で、二ヶ月も待ち続けるなんて有り得ないわ。しかも命懸けなんて。付き合いきれないよ」
璃子のドライな見解に、桐生は肩をすくめた。